《わたしたちが失いつつあるもの》
日本人に受け継がれてきた『学びのこころ』
日本に最初の中央集権国家が生まれる飛鳥・奈良時代以降、外来文化である仏教と儒教は、日本の学問の中心となり、日本人の精神的規範となって日本の文化に深く浸透していきます。また、一方には、遙か神々の時代より、自然の営みに寄り添い、自然に溶け込んで生きる、日本人固有の自然観、死生観があります。日本の豊かで多彩な優れた文芸はそうした歴史的背景、精神風土の下で育まれてきました。また、そこには、学芸を尊び、「学びのこころ」を大切にした古き日本人の姿があります。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2011.12
交隣の道は誠信をば先となし、
而る後以て其の恙なきを保つべし。
近代以前、東アジアの外交関係は、中国王朝が一貫して宗主国として振る舞うなかで、日本が唯一、国家と国家の対等な外交関係を維持し、長い友好の歴史を持った国は朝鮮であった。このような対等な外交関係を当時の外交用語で「交隣」という。木下順庵門下の優れた儒学者であった雨森芳洲は、元禄2年(1689)22歳で、朝鮮との外交及び貿易の窓口であった対馬藩に儒官として赴き、元禄11年(1698)31歳の時、朝鮮との外交折衝及び幕府側との調整、朝鮮通信使との応接などを担う朝鮮方補佐役に就任する。芳洲は、朝鮮との外交を行う上で最も重要なことは、朝鮮の風俗、慣習によく通じて、これを尊重することであるとして、言語を学ぶことの重要性を説いた。自らも漢語を学び、朝鮮語を学び、ハングルを学び、朝鮮語の教科書である『交隣須知』を著す。また、芳洲はその外交思想をまとめた『交隣提醒』において、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わり候を誠信とは申し候」と、人間の信頼を外交の第一に掲げる。それは、単に理想主義、世界主義に駄するのではない、普遍的価値を持った、外交理念の表明であった。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2011.10
江戸時代中期の文人、韓天寿(1727-1795)は、中国の書画研究と古法帖の蒐集とその板刻に情熱を傾けた書家、画家として知られるが、その事績は、詳しくわかっていない。この雪中夜景山水図は、伊孚九や池大雅を模した簡素な絵画を多く残すなかで、池大雅、高芙蓉とともに、富士山、立山、白山に登り、「三岳道者」とも号した文人画家韓天寿の優れた技量を示す、新発見ともいうべき逸品である。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2011.04
中外風光与歳遷
往時回顧渺無辺
屠蘇先祝乃翁寿
六十二年如萬年
乙未元旦
中外の風光、歳と与(とも)に遷る
往時回顧すれば、渺として辺無し
屠蘇にて先ず祝す、乃翁の寿
六十二年、萬年の如し
乙未元旦(明治28年元旦)
批評家小林秀雄は『福沢諭吉』の冒頭で次のように語る。
「言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の凄さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破しているところにある。」
福沢諭吉は、日本の迎えた近代が、西欧とは事情を異にし、市民社会の台頭によってではなく、ペリーの来航に端を発した、単なる政治改革、所詮、封建士族間の権力闘争であると断じる。《方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し》(文明論之概略)
福沢諭吉は、明治にあって、他の封建士族と同じように、新たな権力にすがって身を処すことを潔しとはしなかった。
この詩には、福沢諭吉が還暦を迎えた明治28年(1895)元旦の年紀がある。激動の近代日本の黎明期を駆け抜けた自身の生涯を、六十二年、萬年の如しと回顧するのである。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2011.02
この書に漱石のどんなこころ持ちが隠されているのかと想像するのは楽しい。
漱石は言うまでもなく、日本近代文学の最高峰である。しかし、その背後には前近代である儒学の影響が色濃く残る。そして、終生、文人の隠逸の世界に想いを寄せた。
《小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独り蹲踞(うずく)まって、黙然と時を過すのを楽とした。》(思い出すことなど)。生後まもなく里子に出され、一歳のとき、さらに養子に出された漱石は、そう自らの幼年時代を語る。
戦後を代表する批評家江藤淳は、漱石を纏った《則天去私》神話のベールを剥ぐことによって、優れた漱石論を書いた。その論考第一部「漱石の位置について」は、次のように結ばれる。「こうして年毎に暗さを増して行く作家の対人間的姿勢から逃れ出ようとするかのように、「思い出す事など」や「硝子戸の中」のような、美しい小品が書かれた。漱石の最も奥深いかくれ家である、この静寂を夢想している時、おそらく、彼の「我執」は慰められたのである。「則天去私」とは、いわば、人生に傷つき果てた生活者の、自らの憧れる世界への逃避の欲求をこめた、吐息のような言葉でもあった。」と。 漱石は無論、小説家である。我々は、江藤淳と同じように、漱石の言葉を読み、漱石のこころの深淵に分け入って行かなければならない。しかし、一方で、言葉ではない言葉、言葉では見えない言葉もあるのではないか。《山高くして月上ること遅し》、この漱石がわたしたちに残した一点の書も、《吐息のような》、漱石の言葉ではないのか。そして、この懸物の前に独り蹲踞(うずく)まって、黙然と時を過した漱石の幼きこころを訪ねることも、漱石を読むことの一つではないのか。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2010.10
俳人・藤野古白 子規の四歳下の従兄弟。
子規は古白を評し、「古白の身を譬えばゝ火燄を包みたる氷の如し。氷に觸るゝ者誰か中に火燄の燃えつゝあるを知らん。」(古白遺稿・藤野潔の傳)、或いは、「彼は自ら狂なりといふ、然り狂なり。」(同)と言う。明治28年3月3日、子規は、日清戦争を従軍記者として視察するため東京を発つ。戦況はすでに決し、下関では講和会議は開かれようとしている。「どうかして従軍しなけれは男に甲斐がない」(我が病)、「孤剣飄然去って山海關の激戦を見ん」(古白遺稿・藤野潔の傳)と、子規もまた、戦勝気分に湧く国民的昂揚のなかにいた。子規が東京を発つその前夜、古白は子規の身支度を手伝っている。その時の様子を子規は、「擧動快活なり」(同)と記す。同年4月7日、古白は、「現世に生存のインテレストを喪うに畢りぬ」(同)と遺書に記し、自ら銃弾を頭部に放つ。
『古白遺稿』は正岡子規によって編纂され、明治30年5月28日に発行された。これは、その正岡子規自筆草稿の内二枚である。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2010.07
君主が亡くなり、臣下が後を追って自死することを殉死という。明治天皇大葬の夜、霊轜出門の弔砲とどろくなか、乃木希典は妻とともに自刃する。
明治の日本人が持っていた倫理観、それは天皇の臣民として、国家に忠義を尽くすことであり、天皇の臣民として誠実に実直に生きることであった。明治という時代は、時代がそれを求め、人々もそれを求めた。乃木希典の生涯はそういう時代精神の象徴であり、乃木夫妻の殉死は、そういう時代精神の終わりを告げるものであった。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2010.05
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2010.02
明治の禅界にあって、南天棒ほど臨済の正統を痛快痛烈に生き抜いた禅僧は他に見当たらない。各地の僧堂を渡り歩いた、《棒下の無生忍、機に臨んでは師にも譲らず。真理、悟りの戦いにおいては、師たりともゆるさん》という大胆不敵な道場破りは、多くのなまくら老師を震撼させた。また一方で、その真っ当で峻烈が故に多くの老師は眉をひそめ、宗門に対する「宗匠検定法」の建白は、臨済宗各派長老の賛同を得るが、実際は先師古川尭道老師の「南天さんはあれでみずからの徳を損じた」、師兄無学文奕の「それでは南天さんの検定は誰がするのかな」と、宗門の冷ややかな視線のうちに実現することはなかった。しかし、南天棒は一向に怯まない。《悟前の修行よりも、悟後の修行のほうが大事なのに、問答だけで印可をもらおうなんていう痴れ者もいる。老師がその人の聖胎長養、心上の悟りを如何に実践するか、行解相応をみた上でチャンと印可するのだ。印可は学校の卒業証書じゃない。悟りは禅学者になることじゃない。》と怯むどころかますます鋭気に満ちる。南天棒にとって、禅に生きるということは、《老師の使命は一箇半箇の真の仏子を打出するを以て足れり》と言うが如く、祖師の真風を扶起し、その血脈を守り、祖師伝来の不立文字の禅に参得して、衆生済度の本願を全うすることに他なかった。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2010.01
「南無」とは頭をさげること。「阿弥陀」とは限りなき命(無量寿)、知識や言説では解き明かすことのできない光明をあらわし、「仏」とは覚(さとる)ということである。念仏を信じ、「ただ一向に念仏」するということは、いのちのありがたさを深く感じ、自己のいのちの根源にせまりいくことである。山本空外は、念仏三昧の実践のなかで、自・他が対立せず、自分も最善を尽くすが、相手も生かし切って、ともども平和なうちに、人間として真実の生活を実らしいくという『無二的人間形成』を提唱し、西欧文化には無い東洋独自の書道文化を、「自然のいのちが生動して書の形となるような心の文化」であり、書道によって心を深める『無二的書道』の取り組みを提唱した。
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2009.10
仏教学の根本は自宗や他宗の宗義を知ることではなく、仏教の真の姿を知ることである。
遠くインドの地に生まれた仏教は中国を経て日本に伝わり、古来より日本の仏教研究は中国仏教を母体として、そのほぼ大半が梵語(サンスクリット語)の仏教原典から漢訳された諸仏典とそれに基づく著作が基となった。近代仏教学において南條文雄の果たした大きな功績は、その生涯を「無量寿経」「阿弥陀経」「金剛教」「金剛般若教」「般若心経」「尊勝陀羅尼」などの梵文写本の謄写や訳読、漢訳写本の英訳、梵語写本と漢訳写本の対校等の研究に尽くし、それらの成果を刊行することによって、その後の近代仏教学において日本のみならず、広く世界の文献学的仏教研究に多大なる基礎を成したことである。
この梵英漢七仏通誡偈の書は、代表的原始仏典であるダンマパダ(法句教)の偈を梵、英、漢の三体で表し、南條文雄の仏教学の神髄とその精華を一目のもとに象徴するものである。
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2009.06
芭蕉没後の地方俳壇は、芭蕉の弟子各務支考の説く「門前の姥の合点せぬは俳諧にあらず」という俗談平話の庶民的俳風によって、支考とその一派「美濃派」を中心に、伊勢の岩田涼菟、中川乙由(麦林舎)ら「伊勢派」の俳諧勢力らが「田舎蕉門」、「支麦の徒」、「野夫村童の雑談」と揶揄されながらも着実に根を張っていった。千代女の生まれた加賀はこの両派の強力な勢力圏であった。千代女の噂が人々の口吻にのぼり、支考の来訪を受けるのが17歳のとき、俳人千代女はその揺籃期に「美濃派」や「伊勢派」の感化を受け、俗化の一途を辿ったといわれる俳諧混迷期にあって風雅の道一筋に生きるのである。
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2009.04
明治33年(1900)、敦煌莫高窟の第16窟(現在は第17号窟)から古写本を中心とする大量の史料が発見される。後に「敦煌学」へと発展し、「敦煌文献」などと呼ばれるこの一大史料は、発見から明治43年(1910)、清朝政府による保護が始まる間、最初にイギリスの東洋史家で探検家のオーレス・スタインに、続いて同じくフランスの東洋史家で探検家のポール・ペリオによってその文献の一部が自国へ持ち去られる。この「敦煌文献」の発見をいち早く知り、その学術的価値に驚嘆し日本における「敦煌学」の端緒を開いた第一人者は内藤湖南であった。湖南は大正13年(1924)7月6日、満を持して敦煌文献調査のためにヨーロッパへ渡り、大英博物館、フランス国立図書館、ポール・ペリオの私邸などで大量の敦煌写本の閲覧と撮影をする。この『游欧帰舟絶句』は、文献学(目録学)に依拠してその史観を打ち立てようとした湖南が、自らを鼓舞しその気概と決意を詠ったものである。
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2008.11
清朝末期の代表的碩儒、張廉卿に書法を学んだ、異端の書人。
《ふりかえると、私が初めて宮島先生を代々木の私邸にお訪ねしたのは、昭和十年の秋であった。先生は七十歳、私はまだ三十歳をようやく越えたにすぎない若輩である。当時、成蹊学園の教員をしながら、すでに私は書家となることを志していたが、先生が書家を嫌っておられることを初めて知った。先生はあくまでも学者であり、思想家であり、真の国士であった。弟子をとるでもなく、人に見せるでもなく、全く自己に沈潜せんがために筆を執るのが、宮島先生の書であった。あるとき、私が展覧会出品を意図していることをふと漏らしたところ、先生は心もち表情を変えられて、自分の人格がこんなに立派だと君は人に見せることができるのか、そんなつもりで君は私を訪ねたのかと、静かに説諭された。静中に秘められたそのときの迫力を、私はいまだに忘れることができない・・。 続きへ 》(上條信山)
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2008.9
天明元年(1781)、長州萩の真宗清光寺聞心院老師のもとで剃髪得度した29歳の田上菊舎は、美濃不破郡岩手の獅子門美濃派道統大野是什坊の門人となるため、郷土長門国豊浦(下関市)を出立します。大野是什坊に蕉風を学び、是什坊より只一筋に風雅の道を信じて生きること、その「信」の一字を意味する「一字庵」の号を授かった田上菊舎は、以来、諸国行脚し、俳諧修行の道一筋に生き抜きます。芭蕉が没して八十有余年、一字庵田上菊舎尼の生涯は、旅に生き、旅に死すことを求めた、芭蕉の姿を追うことでもありました。
『学びのこころ』にふれる今月の一点 2008.7
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2008.5
柳宗悦は、若き頃より西洋宗教思想、次に仏教思想を学ぶなかで、「民藝」の美と出会い、「民藝」を通して独自の宗教哲学を展開していきます。柳宗悦は、名をなした芸術家による美、天才による美ではなく、名も無き工人、貧しき民衆によって作られ、またそれらの人々が普段、日常の中で使い続けたもの、長く雑器として蔑まれ「下手物」と呼ばれてきたもの、それを「民藝」と呼び、そこに〈美の基準〉と〈工芸の正しき姿〉を見いだします。それは、李朝の陶磁や民画、日用品、雑器として用いられた日本各地の民窯で焼かれた瓶や壺や皿や漆工品、イギリスのスリップウエアと呼ばれる古陶磁、アイヌの着物や東北の刺子やこぎんなどでした。柳宗悦にとって「民藝」は生涯にわたる研究テーマとなり、「民藝」に接し、「民藝」を探求することにより、その思想を深化させていきます。それは、その名も無き工人、名も無き貧しい人たちの生活のなかに、また、そのこころのなかに、物と心が一如になった世界、「美の浄土」があるという、独自の宗教観でした。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2008.4
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2008.1
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2007.11
この作品は、尾張藩の儒者で能書家として知られる丹羽盤桓子による、「滕王閣序」全文の書写で、特に楷書の細字に優れるといわれる丹羽盤桓子の佳品です。

