《わたしたちが失いつつあるもの》
日本人に受け継がれてきた『学びのこころ』
日本に最初の中央集権国家が生まれる飛鳥・奈良時代以降、外来文化である仏教と儒教は、日本の学問の中心となり、日本人の精神的規範となって日本の文化に深く浸透していきます。また、一方には、遙か神々の時代より、自然の営みに寄り添い、自然に溶け込んで生きる、日本人固有の自然観、死生観があります。日本の豊かで多彩な優れた文芸はそうした歴史的背景、精神風土の下で育まれてきました。また、そこには、学芸を尊び、「学びのこころ」を大切にした古き日本人の姿があります。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2007.10
安永5年(1776)、田中大秀は飛騨高山に生まれます。幼年より古学への関心が深く、10歳の頃には「百人一首」「古今集」を暗誦したといわれます。20歳を過ぎて熱田神宮の神職栗田知周、京都の文人伴蒿蹊に学び、享和元年(1801)4月、僅か2ヶ月程でしたが、京都に滞在していた本居宣長を訪ね門弟となります。同年9月、宣長は病没しますが、その後も宣長を生涯の師と敬慕し、「竹取翁物語解(6巻)」「土佐日記解」「蜻蛉紀行解」など多くの著作を完成させるなど、宣長の国学を受け継ぎ、飛騨一円に国学を広め、国学の発展に重要な足跡を残しました。また、「清貧の歌人」として知られる橘曙覧は大秀の門人の一人でした。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2007.11
滕王閣は中国江西省の南昌にある楼閣で、岳陽の岳陽楼、武漢の黄鶴楼と並んで江南の三大名楼と呼ばれ今も名勝として知られています。この「滕王閣序」とそれに続く七言古詩は中国唐代初期の詩人で初唐四傑の一人に数えられる王勃が、父を尋ねて交趾(今のベトナム)に赴く途中、修復が成った滕王閣上での招宴の席上に臨んで即座に書き上げたもので、中国千古の名文として今に伝わります。王勃はこの後、交趾に向かう途中、二十八歳の若さで溺死します。
この作品は、尾張藩の儒者で能書家として知られる丹羽盤桓子による、「滕王閣序」全文の書写で、特に楷書の細字に優れるといわれる丹羽盤桓子の佳品です。
『学びのこころ』にふれる 今月の一点 2008.1
明治40年(1907)、明治13年(1880)に制定された旧刑法に代わる現行刑法が施行される。それから2年後の明治42年(1909)、牧野英一は、従来の旧派刑法論に対して反旗を翻し、新派刑法論を展開した『刑事学の新思潮と新刑法』を発表する。新派刑法論とは、刑罰を科すこと自体が正義であり、刑罰は犯罪行為に対する応報として犯人に苦痛を与えるためのものだという旧派の応報主義を否定し、犯罪は、社会における生存競争の余弊として一定の法則に支配された社会現象であると規定し、その上で、刑法の重点は応報主義から目的刑主観主義(教育刑論)、犯罪に対する社会の保全を刑罰の目的とし、そのために刑罰は科学的方法に基づき犯罪人の反社会的性格を矯正するものでなければならないという主張であった。