岡倉天心
Okakura Tenshin

学びのこころ掲載作品

 岡倉天心 1
 岡倉天心 2 岡倉天心 3 岡倉天心 4 岡倉天心 5
 岡倉天心 6

岡倉天心全集 第6巻 (平凡社)

 岡倉天心 7

岡倉天心全集 第6巻 (平凡社)

作家名
岡倉天心 おかくら てんしん
作品名
森田思軒あて書簡
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 紙裂 岡倉天心全集所載 合箱
書簡寸法51.5×15.8㎝
全体寸法(掛け軸)79×130㎝
註釈

明治21年(1888)1月23日
森田思軒あて 封書(委託便)
【表】森田思軒 【裏】岡倉覚三[封印]〆

拝啓 昨日磯野氏に面会 同氏は承諾致候へ共少々都合有之来月中旬頃迄は出校致兼且現今の処 Sensitive の風アリて直チニ其名ヺ新聞抔ニ顕ハスヲ好マサル由 右両点は御好意二対し如何ニモ我儘なる申分にて小生より申上兼ぬル儀ニ候ヘ共右にて御差支なき事ニ候ハヽ当人の為メニは好都合と存候 右御面会之上篤と可得貴意候ヘ共不取敢申上迄也
一月二十三日 覚三
思軒先生 侍史

拝啓 昨日磯野氏に面会しました。同氏は承諾いたしますが、少々都合があるので、来月中旬頃までは出校致しかね、かつ、今のところ、Sensitive な様子で、直ちに名前が新聞などに発表されるのは困るということで、これは、ご厚意に対し、いかにも我が儘な話にて、私から申し上げかねることですが、これが差し支えなくば、当人のためには好都合と思います。これについては、お目に掛かって、じっくりあなたのお考えをうけたまわりますが、取りあえずお伝えしておきます。

Sensitive… 敏感な、感じやすい、傷つきやすい

森田思軒
文久元年1861~明治30年(1897)

備中国小田郡笠岡(岡山県笠岡市西本町)に生まれる。本名は文蔵。別号に埜客(やきゃく)、羊角山人、白蓮庵主人など。明治7年(1874)、大阪慶應義塾に入塾。明治8年(1875)、徳島慶應義塾を経て、明治9年(1876)、慶應義塾本校に入塾し英文学を学ぶ。明治12年(1879)、岡山の興譲館で坂田警軒について漢学を学ぶ。明治15年(1882)、上京し、慶応義塾時代の恩師、矢野龍渓の経営する郵便報知新聞に入社。明治18年(1885)、清国へ特派され、『訪事日録』『北京紀行』などの紀行文を報知新聞に掲載。事実上の編集責任者として、同紙にジュール・ヴェルヌ、ヴィクトル・ユゴー、エドガー・アラン・ポーなどの海外作品の翻訳寄稿した。明治25年(1892)、報知新聞を辞職し、国会新聞に入社。同紙及び、国民之友、太陽などの雑誌に多くの翻訳、批評などを寄稿する。明治29年(1896)、黒岩涙香の萬朝報に入社、同紙に健筆を振るうなか、翌明治30年(1897)、36歳で腸チフスにより急死する。岡倉天心は葬儀の際、友人代表の一人であった。明治40年(1907)、交流のあった徳富蘇峰、幸田露伴、森鴎外らが解説を記した『思軒全集』刊行された。

※磯野氏…磯野徳三郎 安政4年(1857)~明治37年(1904) 久留米に生まれる。評論家・翻訳家。明治11年(1878)、東京帝国大学化学科卒業、東京師範学校教員。採鉱及び冶金学専門で理学士。天心とは漢詩の友であったという。明治22年(1889)、東京美術学校創立時に理化学の嘱託となるが、翌年解任され文部省に出仕。明治29年(1896)、再度東京美術学校の嘱託となるが、明治31年(1898)、岡倉天心の辞職にともない同校を辞職する。

この書簡が書かれた、明治21年(1888)1月は、天心が東京美術学校の開校準備に奔走していたころであり、書簡の内容は、磯野徳三郎を東京美術学校の教師招聘に関するものと思われる。