至道無難/禅林墨蹟 臨済宗/掛け軸、絵画の買取 販売 鑑定/長良川画廊

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禅林墨蹟 臨済宗
E-446 至道無難

E-446 至道無難Shidou Bunan

学びのこころ

至道無難禅師 法語集

仏教では、師から弟子へと受け継がれる仏法の伝燈、その系譜を法系、法脈、法嗣、法孫などといい、禅宗において特に重んじられる。それは、禅の真髄は、経典に書かれた言葉だけでは伝えられず、言葉を超えたものによって得ることができるという教外別伝、不立文字の思想によるからである。臨済宗が「愚堂の下に至道が出て、至道の下に正受老人(道鏡慧端)が出て、正受老人の下に白隠が出て、白隠によって日本の近世禅は確立し、今日の臨済禅はすべて白隠下に連なる」と誇示する所以である。また、「菩提本樹無し、明鏡亦台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。」という六祖慧能のありようを禅の最高の境地だとする。至道無難禅師が、この法語集のなかで繰り返し説くのもそのことである。しかし、一方で禅師は、「一 坊主は天地の大極悪也、所作なくして渡世す、大盗人なり。一 修行果萬して人の師とならんとき、天地の重宝なり。よろず渡世の師のみあり、大地の師まれなり」(『即心記』)といい、出家とは名ばかりの俗化した出家者を痛烈に批判する。それはひいては、形骸化した法系を批判し、その法系を誇示する宗門を否定しているのである。「大地の師」とは、「民衆の師」ということである。禅師にとって「民衆の師」に徹すること、それが、無相、無心、無住、形なきものに覚することであり、それこそが至道無難禅師を白隠へと連なる近世禅の改革者とする所以である。

 至道無難 1
 至道無難 2
 至道無難 3
 至道無難 3
作家名
E-446 至道無難しどう ぶなん
作品名
法語集(長良川画廊本)
価格
8,800,000円(税込)
作品詳細
巻子 紙本 緞子裂 合箱
本紙寸法917x25.5
全体寸法(胴幅)巻子全長937㎝
作家略歴

至道無難
慶長8年(1603)~延宝4年(1676)

美濃国不破郡関ヶ原宿(現在の岐阜県関ケ原町大字関ケ原902番地)の本陣の家に生まれる。50歳ころ愚堂東寔について出家。愚堂の印可をうける。民衆に平易なことばで禅の精神を説く仮名法語集を著す。江戸麻布に東北庵をいとなみ、至道庵主と称した。近世禅は、愚堂から至道無難、正受老人から白隠禅師へと伝灯の系譜が続くといわれる。

コンディション他

(作品解説)
至道無難禅師の著名な法語集に寛文10年(1670)に刊行された『即心記』と寛文12年(1672)に刊行された『自性記』がある。いずれも再版復刻されているが、その直筆原本は残っていない。禅師の最初期の法語集は、寛文6年(1666)10月の年紀のある龍澤寺所蔵法語集でる。これは直筆原本が同寺に保存されている。ここに紹介する法語集巻子は、寛文7年(1667)春の年紀があり、龍澤寺所蔵法語集に次ぐ直筆法語集であり、『即心記』、『自性記』に先駆けて編まれたものである。至道無難禅師は、東海道の宿場町美濃関ヶ原の本陣宿の長男に生まれた。天下分け目の関ヶ原合戦の3年の後である。禅師は自らの生涯を『自性記』の冒頭に次のように記している。
「予ハ、ミノノ国関ヶ原ノ番太郎ナリ。愚堂和尚ノ人足シテ、江戸ヘ御供ノ時、和尚不憫ニ思召(オボシメシテ)、本来無一物ト御(オン)示(シメシ)、忝(カタジケナク)思イ、三十年修行シテ、直(ジキ)ニ無一物ニナリ、和尚ノ御恩ニヨリ、仏ノ有カタク、忝ヲ知、仏法、人ニ教(オシエ)、イトタウトシ」。
 本陣の家に生まれた「番太郎」が愚堂東寔のもとで出家を果たすのは52歳の時であった。そして名利を求めることなく、無法階の一庵主として、平易な仮名法語や道歌によって広く民衆に仏法を説いた。ここに紹介する至道無難禅師直筆の法語集巻子は、近世禅研究において、また至道無難禅師の人格と禅の真髄に触れるうえで、大変重要な、新発見の『至道無難禅師法語集』である。

(翻刻文)

妙法のたうりを聞人に
一、妙法と云も、あミた仏と云も、阿字本不生と云も、さとりと云も、ミなヽヽ人の心の事也。
一、心ハ元来何もなきもの也。かるかゆへに、身なけれハ、天地のうちそとまて、ミちヽヽたるこくう の事也。いけるものをハ申に不及、草木まて、こくうのうちにあるもの也。もとよりこくううちそとをつらぬきたるもの也。
一、しゆきやうハ、身をおもふ心を捨て、心に立かへれハ、すなハち身きゆる也。いかにも身ありなから、なくなる事うたかひなし。仏道の大事ひミつと云も、身のなくなる事を云也。身のなくなるハ身をおもハぬ時、必なくなる也。一、しやか如来のいろヽヽの法をとき給ひしハ、その人ヽの心にしたかひて、とかせられし事也。とてもかくても仏道に入かぬる人にハ、後世をねかハせて、又の世に仏のゑんにあハんため也。
一、いけるものゝうちに、人ハかりありかたきハなし。これハいかにいへハ、仏道を聞しる故也。仏を聞てをこなハぬ人ハ、すなハち、ちくしやうにことならす。一、これほとあさましかりし人の心のうたてさよ、たとへハ百才まていけるくすりとか、又ハましないとか、あるひハもんをとなへよとかいハゝ、さそつとひあつまりて、わかふといハぬ人ハあるましき也。百になりて、たしかにしする事をしれとも、まつ百才まてをねかふ也。
一、仏道ハちきに生死をのかれ、大あんらくをうけ、天地のあらんかきりハ、たのしむ事をしらて、おろかに百年をくるしミなからいきたかるほとの、つたなき心なり。あさましともなかヽヽいふにたらす。一、しやか如来の法花をとき給ひし時、唯有一乗法とゝき給ひしハ、只こくうはかりなりといふ事也。無二亦無三とハ、こくうのほかハ何もなきといふ事也。一、応無所住而生其心とハ、本来すきと身のなくなれハ、心のをき所ハなし。されとも、物にむかひ用のある時ハ、いかほとも、こゝろハてくるといふ事也。
一、修行と云事ハ、第一わかむねのうちに何もなき所をしりて、つよくさせんして、それをやしないヽして、身のねん、したハヽになくなり、さて何もなき所つよくなれハ、もはや何事にもふしきなし。かならす、おこたる事なかるへし。一、わか家にほんそくといふ事あり。何のへんてつもなきもの也。一物もなき物ニなれハ、いかやうの事をとハれても、ふしきなし。わか身にねんあれハ、ものことにふ しきいてきて、おとろく也。たとへハ、
一、むかし大せんちしきふたり、山中を行に大きなるふちのあたりにて、ひとり水をあひしに、大ちや出たり。すなハちその大ちやにのりて、つのをとらへてゐる。ひとりハあまりおそろしくや有けん、あとも見すにけし。かやうにふたりなから、大せんちしきの、ひとりハにけ、ひとりハ大ちやにのりし事、いかにととひし事也。さとりのつよき人と、さとりのよハき人、こゝにてあらハるゝ也。
一、ほんふほと死をきらふせいしんハ、死をしらす。一、ある人としをひて、うたをならひなとしけり。いかにも老女のにつかぬ事とおもへり。
一、ある寺ほうし、山ふかくすミて、かねをもとめあつめぬる。これもいらぬ事とおもへり。
一、あるそく人、きようだてをして、いろヽヽ人あつめしけり。のちにわさハひあり。
一、あるわかき人、仏道に心かけありしを、ある人あしくいひしをきけハ、いかにもことハりかたし。まつおやに敬をつくせ、もとより主君につかへよ、ほうはいに道をたゝせよと、しミヽヽといけんしけるヽ事也。予いはく、さてヽヽにつかぬ事をいけんせし人かな、大道に心さし、物ことのもとをあらため、万事すなをになるもとを仏道とハ天ちくのならひ也。天道とハもろこしのならひ也。神道とハわか朝のならひ也。ミなヽヽ人の心をいへり。万法ミな心のなすわさ也。その心のもとをしるを仏道といひしに、それにいろヽヽのえしらぬことをいひきかせぬる事のあさましや、万事をのれかたけに及ハぬ事をいふも、かへりておろかのしるし也。これほと、かたハしからとひくらひをすることく、よるひるしぬる道なれとも、おろかなる人はわか身のうへとしる人なし。
一、ある人ちゑほとあしき物ハなしといひけれハ、又かたへの人いはく、さては文殊もちゑをきらふやといひける。おしへていはく、文殊のちゑはさらにちゑなし。ちゑなき故に万事にうつりてとゝこほらす。かるかゆへに、文殊のちゑといひける也。
一、これほと善悪邪正ハあきらかなるに、何とて善悪不二、邪正一如とハいひけるそや。とかく仏智はかりかたし。
一、仏法の大事は、身を以てもならす、心を以てもならす。一、ほうこじ、万法に友とならぬ物、われに有事、たしかにしりて、石頭にたつねしに、和尚しめしけれとも、時やいたらさりけん、のちに馬祖にとひしに、祖云、汝か一日に西江水をのミつくさんをまて。汝にむかつていはん。これにて悟道して、 十方同聚会 箇々学無為 此是選仏場 心霊為茅帰
ある人によみて、万法の侶をいかてかかたるへき 西江水ハのミつくすともむかしある国に大ふく長者あり。ひとりむすめをもてり。又となりの国に大ふく長者あり。ひとり男子をもてり。たかひにおとこ女心かよハしけれとも、おやゆるさす。たかひのねんや通しけん、女子行て子をうめり。のちに女子のおやにかくとつけたりけれとも、おや、わか子ハてうたいにありといふ。むかひへ行し女子、おやのもとへ子をハヽへて来る。てうたいよりむすめ出て、一所によるとみえしか、すなハち一人になれり。これをある人とひしハ、むかひへ行しのねんか、又これに残るかねんかととひし也。予かわかき時、十月の比、菊の花のヽもたはヽにさけるしへのうちより、大木をひ出たり。風をふくめり。しハらくしけるうちに、大龍となりて、こくうへとひさる。
一、ある人のいひしハ、さかのしやかほしやかヽの来てつくる土地蔵、さてハミろく・大日、八日ことにまいらふよといひしもいとまし。
一、むかしおもひきりぬれハ、へちの物とやなりにけん。ねすみあまた子をねこにとられて、そのおや ねこをくひころしける、たしか也。もとよりねすミいたちををひありきし事ハいくたひもありし也。
一、西国にある寺の物さひしけなるに、いたちのこをへひのゝみけるを、いたちそのへひをくひころして、子をとり出し、いかにも死せる子に、まめのはをいくつもゝてきて、つゐに其いたちいきかへりし也。其住寺あまりのふしきさに、まめそたけをミしに、あるまめの木を三本のはをとれり。これにしるしをしてをきしに、秋過てくろまめなりし也。ある人、われに仏をとひし時、さして見せけり。ある時、われに仏をとひける、折しもいゐをくひし時なれハ、すなハちいゐをくふといへり。かれしらす、とかく文にまよひぬる人のおろかさに、何もなきを仏といひ、何もなきを神といひ、何もなきを天道といふ事しりて、此世を過しぬる事のあさましや。予かいとわかき時、ある山寺にたつね入しに、むかしの友つれ×にこもりゐしを、いとあハれにおもひし也。しはらくして、物かたりしけるに、世こゝろのいときたなかりけれハよめる。心よりほかに入へき山もなし しらぬ所をかくれかにしてある人に法をおしへてけるに、いかに心得かほにしておこなひなけれハ、とく法に心の花ハひらけとも そのみとなれる人ハまれ也ある人におしへていはく、仏神をうやまハん事、いかにもしたるへし。されとも、第一わか身のうちにある心をあきらかにせさる人の、仏神のたうとミける、いとおほつかなし。ちきにおしへていはく、かならす偽をいふ事なかれ、あやまりあるへし。 仏神又天道といひかへて 人の心の為とハしらすや ある人しゆきやうしけるに、おしへていはく、大道のすてにあらハれん時、何事かおもひかけぬ心、必いつるもの也。人にかたる事なかれ。其人しれはおしへもやせん、大かたしらぬかち也。かへりてあさけりなとしけれハ、其ぬしも又おほつかなかるもの也。予むかし、しゆきやうに おもむきしに、いかにあひかたらひし友なかヽヽ ことはをいららかにいひて なる事にあらすといひ し也。予おもへらく、人もすれハこそすれ、何事も人にハまけましき物をとおもひて、つゐにほゐをとけにけり。大道人といふ事、必いふ事なかれ、死人のいきてはたらくことく也。大道人のしるしにハ、誰も×おもむく物也。なつく物也。したふもの也。悪人ハいやかるもの也。大道人ハせひをたゝさすして、其物をたゝす。物をいはすして人のおそるゝ事たしか也。大道人ハ人とおなしくしておなしからす。おなしからすしておなし事也。万物のもとハ、本来無一物也。万法にうこくも本来は一物也。うこく物をうこかす物のぬしとなり、うこかぬ物はうこかさりけり 天地の外まてミつる身なれとも雨にもぬれす日にもてられす天上天下唯我独尊といへる事を 天地の外にも物はなかりけり 唯かりそめの我ハかり也 ある人の所望によりて老筆なからかた見の為也。

寛文七丁未末春日
至道庵主

(釈文)

妙法の道理を聞く人に
一、妙法と云も、阿弥陀仏と云も、阿字本不生と云も、悟りと云も、皆々人の心の事也。

一、心ハ元来何も無きもの也。かるが故に、身なけれハ、天地の内外まて、満ち満ちたる虚空の事也。生けるものをば、申すに及ばず、草木まで、虚空の内にあるもの也。もとより、虚空内外を貫きたるもの也。

一、修行ハ、身をおもふ心を捨て、心に立帰へれハ、すなハち身消ゆる也。いかにも身ありなから、なくなる事疑ひなし。仏道の大事秘密と云も、身のなくなる事を云也。身のなくなるハ、身をおもハぬ時、必ずなくなる也。

一、釈迦如来の色々の法を説き給ひしハ、その人々の心に従ひて、説かせられし事也。とてもかくても仏道に入かぬる人にハ、後世を願がハせて、又の世に仏の縁に逢ハんため也。

一、生けるものゝうちに、人ばかり有り難きハなし。これハいかに言へば、仏道を聞しる故也。仏を聞て行ハぬ人ハ、すなハち、畜生に異ならず。

一、これほど浅ましかりし人の心のうたてさよ、たとへハ百才まて生ける薬とか、又ハまじないとか、あるひハ文を唱へよとか言はば、さぞ集ひあつまりて、我がふと言ハぬ人ハあるまじき也。百になりて、たしかに死する事を知れども、まつ百才まてを願ふ也。

一、仏道ハ直に生死をのがれ、大安楽を受け、天地のあらんかぎりハ、楽しむ事を知らで、おろかに百年をくるしミながら生きたがるほどの、つたなき心なり。あさましともなかなか言ふに足らず。

一、釈迦如来の法花をとき給ひし時、唯有一乗法と説き給ひしハ、只虚空ばかりなりといふ事也。無二亦無三とハ、虚空のほかハ何もなきといふ事也。

一、応無所住而生其心とハ、本来すきと(すっきりと)身の無くなれば、心の置き所ハなし。されども、物に向かい用のある時ハ、いかほども、心ハ出くるといふ事也。

一、修行と云事ハ、第一我が胸の内に、何もなき所を知りて、強く座禅して、それを養い養いして、身の念、下場下場に無くなり、さて何もなき所強くなれハ、もはや何事にも不思議なし。必ず怠る事なかるべし。

一、我が家に本則といふ事あり。何の変哲も無きもの也。一物も無き物ニなれば、いかやうの事を問はれても、不思議なし。我が身に念あれば、物事に不思議出できて、驚く也。

例えば、
一、昔、大善知識二人、山中を行に、大きなる淵の辺りにて、一人水を浴びしに、大蛇出たり。すなハち、その大蛇に乗りて、角をとらへてゐる。一人ハあまり恐ろしくや有けん、後も見ず逃げし。かやうに、二人ながら大善知識の、一人は逃げ、一人ハ大蛇に乗りし事、いかにと問ひし事也。悟りの強き人と、悟り弱き人、こゝにてあらハるゝ也。

一、凡夫ほど死を嫌ふ精神ハ、死を知らず。

一、ある人年老ひて、歌を習ひなどしけり。いかにも老女の似つかぬ事とおもへり。

一、ある寺法師、山深く住ミて、金を求め集めぬる。これもいらぬ事とおもへり。

一、ある俗人、侠だてをして、色々人集めしけり。後に災ひあり。

一、ある若き人、仏道に心掛けありしを、ある人悪しく言ひしを聞けば、いかにも断りがたし。まづ、親に敬をつくせ、もとより主君に仕へよ、朋輩に道を正せよと、しみじみと意見しける□事也。予言はく、さて、手につかぬ事を意見せし人かな、大道に心ざし、物事の元をあらため、万事素直になる本を仏道とハ天竺の習ひ也。天道とハもろこしの習ひ也。神道とハ我が朝の習ひ也。皆々人の心を言へり。万法皆心のなすわざ也。その心の本を知るを仏道と言ひしに、それに色々のえ知らぬことを言ひ聞かせぬる事のあさましや、万事を己が丈に及ばぬ事を言ふも、かへりて愚かのしるし也。これほど、片端から問ひくらひをする如く、夜昼しぬる道なれども、愚かなる人は我が身の上と知る人なし。

一、ある人、智慧ほど悪しき物ハなしと言ひければ、又かたへの人言はく、さては文殊も智慧を嫌ふやと言ひける。教へていはく、文殊の智慧はさらに智慧なし。智慧なき故に万事にうつりて滞らず。かるがゆへに、文殊の智慧といひける也。

一、これほど善悪邪正ハ明らかなるに、何とて善悪不二、邪正一如とハいひけるぞや。とかく仏智はかりがたし。

一、仏法の大事は、身を以てもならず、心を以てもならず。

一、龐居士、万法に友とならぬ物、われに有事、たしかに知りて、石頭に尋ねしに、和尚示しけれども、時やいたらざりけん、のちに馬祖に問ひしに、祖云、汝が一日に西江水を飲み尽くさんを待て、汝に向かっていはん。これにて悟道して、

十方同聚会
箇々学無為
此是選仏場
心霊為茅帰

 ある人によみて、
 万法の侶をいかてかかたるへき西江水ハのミつくすとも

 むかし、ある国に大福長者あり。一人娘をもてり。又隣の国に大福長者あり。一人男子をもてり。互いに男女心通ハしけれども、親許さず。互いの念や通じけん、女子行て子を産めり。後に女子の親にかくと告げたりけれども、親、我が子ハ「てうたい」(帳台?)にありといふ。むかひへ行し女子、親のもとへ子をハヽへて来る。「てうたい」より、むすめ出て、一所によると見えしか、すなハち一人になれり。これをある人問ひしハ、むかひへ行しの念か、又これに残るか念かと問ひし也。

 予が若き時、十月の比、菊の花の□もたはゝに咲ける蘂の内より、大木をひ出たり。風をふくめり。しばらくしけるうちに、大龍となりて、虚空へ飛び去る。

一、ある人のいひしハ、嵯峨の釈迦ほしやか□の来てつくる土地蔵、さてハミろく・大日、八日毎にまいらふよといひしもいとまし。

一、むかし思ひきりぬれハ、別の物とやなりにけん。鼠あまた子を猫に捕られて、その親、猫をくひ殺しける、確か也。もとより鼠、いたちを追ひありきし事ハ、幾たびもありし也。

一、西国にある寺の物寂しげなるに、いたちの子を蛇の飲みけるを、いたち、その蛇をくひ殺して、子をとり出し、いかにも死せる子に、豆の葉をいくつも持てきて、つゐに其いたち生き返りし也。その住寺あまりの不思議さに、豆そたけをミしに、ある豆の木を三本の葉をとれり。これにしるしをして置きしに、秋過て黒豆なりし也。

 ある人、われに仏を問ひし時、さして見せけり。ある時、われに仏を問ひける、折しも飯をくひし時なれば、すなハち飯をくふといへり。かれ知らず、とかく文に迷ひぬる人のおろかさに、何もなきを仏といひ、何もなきを神といひ、何もなきを天道といふ事しりて、此世を過しぬる事のあさましや。

 予がいと若き時、ある山寺に尋ね入しに、むかしの友、徒然に籠もり居しを、いとあハれにおもひし也。しばらくして、物がたりしけるに、世心のいときたなかりければよめる。 心よりほかに入へき山もなし しらぬ所をかくれかにして

ある人に法を教へてけるに、いかに心得顔にして、行ひなけれハ、
とく法に心の花ハひらけとも そのみとなれる人ハまれ也

 ある人に教へていはく、仏神をうやまハん事、いかにもしたるべし。されども、第一我が身の内にある心を明らかにせざる人の、仏神の尊とミける、いとおぼつかなし。直に教へていはく、必ず偽をいふ事なかれ、あやまりあるへし。
 仏神又天道といひかへて 人の心の為とハしらすや

 ある人修行しけるに、教へていはく、大道の既に顕ハれん時、何事かおもひかけぬ心、必出つるもの也。人に語る事なかれ。其人知れば教へもやせん、大かたしらぬがち也。返りて、あざけりなどしければ、其ぬしも又おぼつかなかるもの也。

 予むかし、修行におもむきしに、いかにあひ語らひし友、なかなか言葉をいららかに言ひてなる事にあらずといひし也。予おもへらく、人もすればこそすれ、何事も人にハ負けまじき物をと思ひて、遂に本意を遂げにけり。大道人といふ事、必いふ事なかれ、死人の生きてはたらく如く也。大道人のしるしにハ、誰も誰もおもむく物也。なつく物也。したふもの也。悪人ハいやがるもの也。大道人ハ是非を正さずして、其物を正す。物を言はずして人の恐るゝ事たしか也。大道人ハ人と同じくして同じからず。同じからずして、同じ事也。万物のもとハ、本来無一物也。万法に動くも本来は一物也。
うこく物をうこかす物のぬしとなり うこかぬ物はうこかさりけり
天地の外まてミつる身なれとも 雨にもぬれす日にもてられす
天上天下唯我独尊といへる事を、
天地の外にも物はなかりけり 唯かりそめの我ハかり也
ある人の所望によりて、老筆ながら形見の為也。
 寛文七丁未末春日 至道庵主

本紙、小折れ。