大愚宗築
天正12年(1584)~寛文9年(1669)
美濃国武儀郡(現在の岐阜県山県市)に生まれる。文禄3年(1594)11歳の時、土岐氏の菩提寺、南泉寺3世状元祖光のもとで出家。祖光没後は兄弟子の南泉寺4世智門玄祚のもとで修行、のちその印可を受ける。慶長11年(1606)ころ、愚堂東寔、雲居希膺らと諸国を行脚、虎哉宗乙、一宙東黙など当時の名だたる禅僧に参禅した。その後、近江国円教寺、播磨国法幢寺、但馬国大明寺を再興。明暦2年(1656)、福井藩主松平光通に大安寺の開山として招かれる。また将軍徳川家光からの信頼厚く、乳母である春日局が亡くなった際の葬式の導師を務める。その生涯に開創や再興した寺は、大愚下三十六刹と呼ばれ、妙心寺派の復興に尽力した。
【原文】
八陣六花転化奇正
好謀西成見義則行
望気拓時星宿輝映
翼治邦家似徳為政
右三十二字応 酒井備後太守之求似書之
岐陽沙門大愚老漢
【訓読】
八陣(はちじん)六花(りっか)転化して奇と正
好謀(こうぼう)に西(したがって)成(な)す義を見て則(すなわち)行(おこなう)
望気(ぼつき)と拓時にして星宿(しんしゅく)は輝(かが)やいて映(うつ)り
翼治(すりおさめ)て邦家を徳を似て政となす
【訳文】
八陣や六花はすべて奇と正を転化して活用する良い例であり、良い戦略に従って成功となり、正義であれば則ち行動すべし、運気を見て、吉凶を判断したり、時は良いタイミングを選べば成功に導く、国家を治めようとするなら、徳を以て施政すれば助けとなる。
本書の「酒井備後太守之求似書之」は、若狭国小浜藩(福井県小浜市)初代藩主酒井忠勝の長男、酒井忠朝のこと。また表具裏に、「奉納 摂津國(大阪府)住吉大明神 宝庫 寛永十六年(1639)春三月十九日 従四位侍従若狭國主讃岐守源朝臣忠勝嫡男 酒井備後守忠朝」と書付があり、大愚は、酒井忠朝に求められて、この偈(詩)を書き、酒井忠朝は、それを掛け軸に仕立て、寛永16年(1639)に摂津の住吉大明神(住吉大社)に奉納したことがわかる。
寛永16年(1639)のウブ表具にして美品。