加藤高明
万延元年(1860)~大正15年(1926)
張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれる。幼名は総吉。明治5年(1872)、祖母・加奈子の姉あい子の嫁ぎ先である加藤家に養子に入る。 明治7年(1874)、叔母の夫で裁判官の安井譲(維新前は尾張藩の船奉行)の薦めで高明と改名。東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、郵便汽船三菱会社に入社。明治16年(1883)、英国の海運業を学ぶためロンドンに留学。明治18年(1885)、帰国して三菱に復帰。翌年、岩崎彌太郎の長女春路と結婚した。明治20年(1887)、外務省へ入省し、条約改正交渉に携わるなど早くから外交官として頭角を現した。以後、在米・在英公館勤務を重ね、明治41年(1908)、駐英公使、大正2年(1913)、駐英大使となり、日英同盟の維持・強化を通じて日本の国際的地位向上に寄与した。同年、第2次山本権兵衛内閣の外務大臣に就任し、第一次世界大戦期の対外政策を主導、対中二十一か条要求など積極外交を展開した。大戦後は貴族院議員を経て政党政治へ軸足を移し、立憲憲政会総裁として普通選挙の実現と政党内閣の確立を掲げ、大正13年(1924)、第24代内閣総理大臣に就任した。在任中、男子普通選挙法を成立させ、国民の政治参加を大きく拡大した一方、社会主義運動の抑制を目的とした治安維持法も制定した。
(加藤高明)
【原文】
昨日御出発前、御
認之芳書、辱
拝見仕候。広島ニ
於て旅館隙御計
申付可被下点モ拝承
乍御手数、宜敷御
取計願上候。同地ニハ
二泊ノ□之処、留守
宅より通信ノ必要有
之事、其難計ニ付、小
生東京出発前、本
月十九迄、右旅宿シ
タレハ、御一報被下度、願上候。
右拝答旁得貴意候。頓首。
十月四日
加藤高明
早速老契
侍史
【訓読文】
昨日は御出発前、御認めの芳書、辱なく拝見仕り候ふ。
広島に於て旅館の隙、御計ひ申し付け下さるべき点も拝承、
御手数ながら、宜敷御取り計ひ願ひ上げ候ふ。
同地には二泊の□の処、留守宅より通信ノ必要有の事、
其れ計ひ難きに付き、小生東京出発前、本月十九迄、
右旅宿したれば、御一報下され度く、願ひ上げ候ふ。
右拝答旁た貴意を得候ふ。頓首。
十月四日
加藤高明
早速老契
侍史
【訳文】
昨日は御出発前に御書きになったお手紙を、かたじけなく拝見しました。
広島では旅館の隙に、御はからい申し付けて下さるべき点も承知しました。
御手数ですが、よろしく御取りはからいお願いいたします。
同地には二泊のつもりですが、留守宅から通信の必要がある用事があるやも、
予期しがたいため、小生の東京出発前、本月十九日迄は右に泊まっておりますので、
御一報いただきたく、お願いいたします。
右拝答かたがた、御承知くださいませ。頓首。
十月四日
加藤高明
早速老契
(渋沢栄一)
【原文】
拝啓、時下秋冷之候、益
御清適奉賀候。然ハ小生管
理致候、第一銀行ニ於て
今般、広島ニ支店開
設仕候ニ付てハ、向後別して
御看顧ニ預り度、懇願
仕候。右ニ付、支店長として
松井萬録を近日差
使候筈心ニ付、同人拝訪之
節ハ何卒御引見之上、
種々御示教被下候ハゝ
忝奉存候。此段御紹介
旁得貴意候。敬具。
九月十九日
澁澤栄一
早速整爾様
侍史
【訓読文】
拝啓、時下秋冷の候、益す
御清適奉賀候。然れば、小生管理致し候ふ、
第一銀行に於て、今般、広島に支店開設仕り候ふに付ては、
向後別して御看顧に預り度く、懇願仕り候ふ。右に付き、支店長として
松井萬録を近日差し使ひ候ふ筈の心に付き、同人拝訪の節は何卒御引見の上、
種々御示教下され候はば、忝く存じ奉り候ふ。
此の段、御紹介旁た貴意を得候ふ。敬具。
九月十九日
澁澤栄一
早速整爾様
【訳文】
拝啓、時下秋冷の候、ますます御清適にお過ごしと存じます。
さて、小生が管理致しております第一銀行で、このたび、広島に支店を開設することになりまして、つきましては、今後は特に御指導賜りたく、懇願申し上げます。
右の件で、支店長として松井萬録を近日中におうかがいさせる所存でございますので、同人が拝訪いたしましたら、なにとぞ御引見の上、種々御示教下されましたら、かたじけなく存じます。この件、御紹介かたがた、御承知置きくださいませ。敬具。
九月十九日
澁澤栄一
早速整爾様
早速整爾
明治元年(1868)~大正15年(1926)
広島県沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)に生まれる。明治20年(1887)、旧制広島中学を経て東京専門学校政治経済英学科(現在の早稲田大学)を卒業。明治22年(1889)、芸備日日新聞社主早速勝三の養子となる。同年、同社の社長兼主筆となる。明治35年(1902)、衆議院議員初当選。大正13年(1924)、加藤高明内閣の時に政務次官制度が発足すると初代大蔵政務次官に就任。翌大正14年、加藤内閣の農林大臣、更に翌大正14年、若槻内閣で農林大臣、次いで大蔵大臣となるが、その3ヶ月後、病で急逝する。
本紙に小折れ、裂にシミとヨゴレ