蠣崎波響
宝暦(1764)~文政9年(1826)
松前藩12代藩主松前資広の五男に生まれる。幼名、金介のち弥次郎。2歳で藩の家老蠣崎元右衛門の養子となり、蠣崎家を継ぐ。幼少から江戸に出て、建部凌岱や宋紫石に画を学ぶ。寛政元年(1789)のアイヌによる一揆、クナシリ・メナシの戦い(国後・目梨の戦い)に際して、鎮圧に協力したアイヌの指導者ら12名の肖像を描いた「夷酋列像」が光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は洛中で知られるようになった。京では松前藩の外交を担いつつ、円山応挙に師事しその画風を学ぶ。文化4年(1807)、松前藩が陸奥国伊達郡梁川村(現在の福島県伊達郡梁川町)に移封された際は、家老として復藩のために奔走、その工作資金のため波響は多くの絵を描いたともいわれる。
(賛)
【原文】
ふく風も
なきさはるかに
かすみつゝ
海の市たつ
なみそのとけき
□堂
【訳文】
吹きわたる春風で、渚はどこまでも霞がかかっている。
この港の繁昌ぶりは、まるで海の蜃気楼のようでもあり、
どこまでも波おだやかな北の港である。□堂
※賛の筆者『□堂』は不明につきご教示ください。
美品