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D-718 豊臣秀吉

D-718 豊臣秀吉Toyotomi Hideyoshi

豊臣秀吉
豊臣秀吉
作家名
D-718 豊臣秀吉とよとみ ひでよし
作品名
加藤嘉明宛書状
価格
580,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本 緞子裂
本紙寸法38.2x16.5
全体寸法(胴幅)47.3x99.5㎝
作家略歴

豊臣秀吉
天文6年(1537)~慶長3年(1598)

出自については、尾張国中村(現在の名古屋市中村区。同区の中村公園には「豊公誕生之地」とい碑がある。)で貧農の出身であるとか、父の名は、木下弥右衛門弥右衛門で織田家に仕えた「鉄砲足軽」であったとか諸説があるが確かな史実はない。天文23年(1554)ごろから織田信長に小者として仕え、各地の戦いで功績を重ね、信長配下随一の重臣となる。天正10年(1582)の本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長死後の主導権を掌握した。翌天正11年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、さらに天正18年(1590)の小田原征伐で関東の北条氏を滅ぼし、戦国時代における実質的な天下統一を完成させた。政権掌握後は、全国的な土地調査である太閤検地、刀狩令などの施策を通じて、武士と農民の身分を明確に分離し、中央集権的な統治制度を整備した。晩年には海外進出を企図して朝鮮半島へ出兵し、文禄元年(1592)の文禄の役、慶長2年(1597)の慶長の役を起こすが、戦況は思うように進まず、慶長3年(1598)、伏見で没した。没後、豊臣政権は急速に弱体化し、日本の覇権は徳川家康へと移っていく。

コンディション他

【原文】
為新年之
祝儀、小袖二
到来、悦入候。
猶、増田右衛門より
申候也。
正月七日
  加藤左馬助殿

【訓読】
新年之祝儀として、
小袖二つ到来、悦び入り候ふ。
猶、増田右衛門より申し候ふ也。
正月七日
  加藤左馬助殿

【訳文】
新年の御祝儀としての小袖が二つ到来しまして、
悦んでおります。
なお、詳しくは、増田右衛門が申します。
正月七日
  加藤左馬助殿

加藤嘉明
永禄6年(1563)~寛永8年(1631)

近江国に生まれる、豊臣秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いの活躍により、「七本槍」の一人と称される。のち関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、伊予松山20万石を与えられる。松山城の築城と城下町の整備を進め、藩政の基盤を固めた。

増田長盛
天文14年(1545)~元和元年(1615)

尾張国増田村(現在の愛知県稲沢市)に生まれたと伝えられる。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。文禄4年(1595)、豊臣秀保の後を受け郡山城主となる。幼少期から秀吉に仕えた豊臣政権の五奉行の一人。

本紙、折れなど経年の傷みあり。