山田方谷
文化2年(1805)~明治10年(1877)
幕末を代表する卓越した政治改革者。幼い頃から学問に秀で、儒学を中心に幅広い経書を修めた。その思想と政治手腕は後世に大きな影響を与え、今も「理財の聖人」と称される。
備中松山領阿賀郡西方村(現在の高梁市中井町西方)で生まれる。生家は、農業と菜種油の製造販売で生計を立てていた。諱は球。字は琳卿。通称は安五郎。幼名は阿璘。5歳の時、親戚の寺に預けられ、藩儒丸川松隠の回陽塾に入塾する。6歳の時、備中国新見藩6代藩主、新見藩関家7代藩主の関長輝の御前で書を披露する。文政元年(1818)、16歳の時に母が死去し、翌年父も死去したため、止む無く松隠の許を去り、実家の家業を継ぐ。文政8年(1825)、備中松山藩主板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられる。文政10年(1823)と同12年(1825)、家業を家族に任せて京都へ遊学し、松隠の知人である儒学者寺島白鹿の門下生となる。天保5(1834)年、佐藤一斎の門に入り、後に塾頭となる。天保7年(1836)、松山藩校有終館の学頭(校長)となる。天保9年(1838)、有終館学頭の傍ら家塾牛麓舎を開く。嘉永2年(1849)11月、藩主板倉勝静から江戸へ召喚され、藩の財政を司る元締役とその補佐役である吟味役の兼務を命じられ、財政破綻寸前であった藩を立て直すために「倹約」「殖産興業」「通貨改革」などを断行。紙幣の信用を回復させ、藩の産業を振興させた。また、軍制改革を進め、騎兵調練を導入するなど藩の近代化を推進させた。文久2年(1862)、板倉勝静が幕府の老中となり、その政治顧問として幕政に関与。維新後、明治政府より政府への出仕を求められたが、老齢と病、郷学に専念したいことを理由に断り続けた。維新後は帰郷して教育と著述に専念し、慶応4年(1868)、私塾長瀬塾を開き、続いて明治7年(1874)、私塾温知館を開いた。主な門弟に河井継之助、三島中洲、鎌田玄渓らがいる。
【原文】
時事紛更不忍言
浩然謝病出都門
百方医国術空尽
一戦攘夷謀独存
厩駑寧堪供駕御
野禽只願祝籠樊
崎嶇西上峡中路
穏座肩輿泣主恩
癸亥春従江都西帰、甲州途上作、方谷珠
【訓読】
時事紛更として、言ふに忍びず。
浩然謝病、都門を出づ。
百方医国、術空しく尽く。
一戦攘夷、謀りごと独り存す。
厩駑、寧んぞ堪えむ、供駕の御。
野禽、只だ願う、祝籠の樊。
崎嶇西上、峡中の路。
穏座肩輿、泣主恩に泣く。
癸亥春、江都より西帰す、甲州途上の作、方谷球
【訳文】
時事は紛糾して言及するに堪えない。
浩然の気を養うべく、病気を理由に辞退して都を離れた。
色々と方策を考えて国をなおそうと思ったが、その手立ても底をついた。
一戦して攘夷を実現しようとの、謀りごとだけが残った。
馬屋に飼われた足の遅い馬が、どうして殿様のお供に堪えようか。
野に住む鳥は、ただ孔子の弟子の樊遅のようにいつも殿の共をしたかっただけだ。
険しい路を西へ向かうこの山峡の道中。
かごに静かに坐りながら、殿様の恩徳に涙を流すばかりだ。
文久三年癸亥(1863)春、江戸から西へ帰る。甲州の路の途中での作、方谷球
本紙、僅かに小折れ。