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T-020 山田方谷

T-020 山田方谷Yamada Houkoku

山田方谷
山田方谷
山田方谷 山田方谷
山田方谷
山田方谷 山田方谷
作家名
T-020 山田方谷やまだ ほうこく
作品名
和歌
価格
150,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 絹本 緞子裂 山田済斎識箱
本紙寸法38.4x117.3
全体寸法(胴幅)52.7x191㎝
作家略歴

山田方谷
文化2年(1805)~明治10年(1877)

幕末を代表する卓越した政治改革者。幼い頃から学問に秀で、儒学を中心に幅広い経書を修めた。その思想と政治手腕は後世に大きな影響を与え、今も「理財の聖人」と称される。

備中松山領阿賀郡西方村(現在の高梁市中井町西方)で生まれる。生家は、農業と菜種油の製造販売で生計を立てていた。諱は球。字は琳卿。通称は安五郎。幼名は阿璘。5歳の時、親戚の寺に預けられ、藩儒丸川松隠の回陽塾に入塾する。6歳の時、備中国新見藩6代藩主、新見藩関家7代藩主の関長輝の御前で書を披露する。文政元年(1818)、16歳の時に母が死去し、翌年父も死去したため、止む無く松隠の許を去り、実家の家業を継ぐ。文政8年(1825)、備中松山藩主板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられる。文政10年(1823)と同12年(1825)、家業を家族に任せて京都へ遊学し、松隠の知人である儒学者寺島白鹿の門下生となる。天保5(1834)年、佐藤一斎の門に入り、後に塾頭となる。天保7年(1836)、松山藩校有終館の学頭(校長)となる。天保9年(1838)、有終館学頭の傍ら家塾牛麓舎を開く。嘉永2年(1849)11月、藩主板倉勝静から江戸へ召喚され、藩の財政を司る元締役とその補佐役である吟味役の兼務を命じられ、財政破綻寸前であった藩を立て直すために「倹約」「殖産興業」「通貨改革」などを断行。紙幣の信用を回復させ、藩の産業を振興させた。また、軍制改革を進め、騎兵調練を導入するなど藩の近代化を推進させた。文久2年(1862)、板倉勝静が幕府の老中となり、その政治顧問として幕政に関与。維新後、明治政府より政府への出仕を求められたが、老齢と病、郷学に専念したいことを理由に断り続けた。維新後は帰郷して教育と著述に専念し、慶応4年(1868)、私塾長瀬塾を開き、続いて明治7年(1874)、私塾温知館を開いた。主な門弟に河井継之助、三島中洲、鎌田玄渓らがいる。

山田済斎
慶応3年(1867)~ 昭和27年(1952)

近代日本の教育界において、漢学の保存と発展を担い、二松學舍の基盤を築いた教育者。

備中国松山藩甲賀町(現在の岡山県高梁市)に生まれる。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋。1880年、有終館に入学。1883年、上京し、漢学塾の二松学舎に入学。翌1884年、山田方谷の嗣子・耕造(知足斎)の長女である春野と結婚。山田家を相続した。その後、城北中学校講師や陸軍参謀本部編集補を務め、さらに熊本の第五高等学校漢文科主任教授、鹿児島の第七高等学校造士館教授など、旧制高校を中心に日本各地で教鞭を執った。卓越した漢学・東洋思想の教養は高く評価され、1917年に勲五等瑞宝章、1919年に正五位、1922年には従四位、1926年に正四位に叙せられた。1927年、二松學舍の学長に就任し、翌1928年には二松學舍専門学校の初代校長となる。以後、同學舍の教育理念である漢学・東洋思想の継承と発展に尽力し、学校の制度改革や発展に深く寄与した。晩年には名誉学長・名誉校長の称号を受け、大東文化学院名誉教授にも就任する。主な著書に『濟齋文鈔』『日本陽明学史』『朱子語類講義』『山田方谷全集』(編集協力)がある。

コンディション他

【原文】
武比先登文状元
花魁祇合在宸園
東風吹覚繁華夢
開落野橋流水邨
 方谷老隠

【訓読】
武き比、先づ登る、文は状元。
花魁、祇だ合いて宸園に在り。
東風吹き覚ゆ、繁華の夢。
開き落つ野橋、流水の邨
 方谷老隠

【訳文】
壮年には文章の力で学者の先頭に立っていた。
梅の花のように、いつも天皇のおそばに伺候していた。
春風が吹けば、華やかだったころの事を夢のように思い出す。
その花は今、小川に粗末な橋がかかる寒村で落ち尽きようとしている。
 方谷老隠
※菅原道真を詠んだものであろう。

本紙、ヨゴレとヤケ、裂のシミ。