百万塔 (自心印陀羅尼収納)
Hyakumantou

 百万塔 (自心印陀羅尼収納) 1
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作品名
百万塔 (自心印陀羅尼収納)
作品詳細
総高21.5㎝
陀羅尼経寸法 40.1×5.5㎝
一本造 法隆寺伝来 東本願寺旧蔵
法隆寺管主千早定朝東本願寺法主宛書簡付き
註釈

《 百万塔 》
百万塔とは、内に陀羅尼を納めた木造三重の小塔のこと。陀羅尼経の根本経典『無垢浄光大陀羅尼経』は、造塔、写経の広汎な功徳を説く。天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱平定後、戦死者の供養と鎮護国家のため、孝謙天皇の勅願によってつくられ、宝亀元年(770)に完成する。完成した百万塔は、当初、奈良の大安寺、元興寺、東大寺、西大寺、薬師寺、興福寺、法隆寺、川原寺、大阪の四天王寺、滋賀の崇福寺に10万基づつ安置されたが、現在は、法隆寺にのみ、上部の相輪部266.054余基、塔身部は45.755基残る。このうち100基が、明治41年、旧国宝の指定を受けている。

《 陀羅尼 》
百万塔に納められた陀羅尼は、無垢浄光大陀羅尼経に説かれる、根本陀羅尼、相輪陀羅尼、自心印陀羅尼、六度陀羅尼の四種あり、現在は、法隆寺に約4000点残る。尚、陀羅尼は、世界最古の印刷物でもある。

《 法隆寺管主千早定朝東本願寺法主宛書簡 》

(封筒表書)
大谷老法主尊前
     搨下

                   (同裏書)
法隆寺住職
  廿一年五月十六日認 千早定朝 (印)
     (異筆)「六月上旬到来ス」  

(本文)
謹啓、時下新緑時鳥之候、倍御
安静御法務被遊、欣喜不斜奉
敬賀候、陳者、急般は折角御参向
之処俄之事ニテ何之手当無御
座、欠敬至極、尤前ニ承諾仕候得者、乍
不束全備モ可仕之処、前陳之次第ニテ
何之御饗応モ無之迷惑無限候、
且其際ニワ御手厚キ御恵ミヲ戴キ奉
感謝候、将又当山所蔵之無垢浄光陀
羅尼塔、御好ミ之御模様、則チ武田氏より
承知仕候ニ付、今回該品壱個呈備仕候
間、御受納被成降候ハヽ本懐之至ニ候
先者今般之御会釈旁捧愚書候也
(明治)
  廿一年五月十六日   千早定朝

  大谷老法主尊前



     

千早定朝
文政6年(1823)~明治32年(1899)

現在の奈良県天理市原城に生まれる。幼名、松麿。父、河村音右衛門は、藤堂藩の無足人(準士分の上層農民)。天保6年(1835)13歳、法隆寺弥勒院千學のもとで得度。安政5年(1858)36歳、法隆寺の総代として「納経拝礼」のために江戸へ下向。明治元年(1868)46歳、法隆寺の改革を求める「建白書」を法隆寺へ提出。明治9年(1876)54歳、「法隆寺什器宝物取調上申目録」作成。法隆寺住職に就任。明治11年(1878)56歳、皇室に宝物を献上、下賜金1万円を得る。明治14年(1881)59歳、法相宗独立を社寺局に直訴するため上京。明治15年(1882)60歳、法相宗管長に就任。この年、法隆寺は真言宗からの独立を果たす。明治19年(1886)64歳、フェノロサ、岡倉天心、加納鉄哉ら、諸堂の調査を行う。明治21年(1888)66歳、「法隆寺保存会」設立。明治23年(1890)、法相宗管長、興福寺住職、清水寺住職を兼務。明治32年(1899)77歳、法隆寺西園院で遷化。廃仏毀釈の時代にあって、法隆寺の堂塔の整備と、学問の復興に尽力し、近代法隆寺の祖といわれる。

補記
飛鳥時代、聖徳太子によって創建された法隆寺は、創建当時、「勝鬘経」、「維磨経」、「法華経」の三経を絶やすことなく、毎年の夏安吾に講義することがひとつの信仰として守られていた。それは太子の遺命でもあった。やがて奈良時代になり、中国や朝鮮半島の国々より新しい仏教の学問が伝わると、三論宗、法相宗、律宗、雑密、成実宗などを専攻する学僧が現れる。法隆寺そのものには特定の宗派はなく、寺僧たちは仏教であれば何を専攻しても自由であり、それが古代寺院の特徴でもあった。中世のころになると、南部随一の勢力を誇った興福寺の強い影響を受けるようになり、三論宗、法相宗、律宗、真言宗の四宗を兼ねる、「四宗兼学の寺院」と呼ばれるようになる。しかし、伝統的には、三経を研鑽することが法隆寺の大きな特徴であった。ところが、明治初頭の太政官布告により、法相宗、律宗、華厳宗などの宗派は、真言宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗などの大きな宗派に併合することを求められたのである。そして法隆寺は、やむなく、真言宗の所轄寺院となる。法隆寺は、真言宗の所轄を受けるにあたって、法隆寺に有利な諸条件を真言宗に求め了承を得ていた。しかし、次第に客寺的な特別待遇は許されなくなり、一般末寺と同じような扱いに変化してくる。そのような状況のなかで、法隆寺管主に就任したのは、千早定朝であった。千早定朝は、真言宗からの独立と、堂塔の修復と学問の復興を果たすため、東本願寺に接近する。東本願寺とは親鸞聖人が法隆寺で修学したという、少なからぬ縁があった。千早定朝は先ず、東本願寺と手を結んで、東本願寺大学林を法隆寺の境内に創設し、復興の足がかりにすることを考えたのである。

この百万塔には、千早定朝による東本願寺法主宛書簡が添えてある。書簡の日付は、明治21年5月16日である。法隆寺の復興を果たしつつあった千早定朝にとって、最後の悲願は、伽藍の修復であった。同年11月、千早定朝はその実現のため、「法隆寺保存会」を創立する。この百万塔は、明治期、法隆寺から流出した多くの百万塔の一つであるが、そこに添えられた書簡によって、法隆寺の復興に至る、その裏側の物語を垣間見ることができるのである。尚、当時の東本願寺法主は、大谷光勝であろう。この百万塔は、法隆寺管主千早定朝より直接、東本願寺法主に贈られた法隆寺伝来、東本願寺旧蔵の貴重な百万塔である。

(参考資料・『千早定朝管主の生涯』高田良信著)