長谷川守知永
禄12年(1569)~寛永9年(1633)
信長、秀吉に仕え、茶人としても知られる長谷川宗仁の子。初名、重隆。通称、源三郎、右兵衛尉。父とともに豊臣氏につかえ、関ケ原の戦いでは石田三成を支持するが、徳川方に内応。大阪夏の陣で家康に従い、家康没後は、秀忠に仕えた。美濃、摂津等で1万石余を与えられる。
本紙、裂とも経年の傷み。【原文】
尚々明日晩下屋敷へ
尾張様水戸様申請候御
昨日之義無是非候即為御知ニ
約束ニ候へ共主計公事ニ延申候
使者預候由下屋敷ニ居申候て
明朝は是にて不断之めしを
不及返答候キか様之時早〃
可参候かしこ
為御知何より御懇意之験
にて候明朝何方へも無御出候は
御物語も候間上之屋敷へ御出
可参候恐惶謹言
八月十一日 正宗(花押)
松陸奥守
正宗長谷式少様人〃御中
【読み下し文】
昨日の義是非なく候、即ち御知らせの為に
使者に預り候由、下屋敷に居申候て
返答に及ばず候き、か様の時早々
御知らせの為何より御懇意の験(しるし)
にて候、明朝何方(いずかた)へも御出なく候(そうらわ)ば
御物語も候間、上の屋敷へ御出
参かるべく候、恐惶謹言
尚々明日晩下屋敷へ
尾張様水戸様申し請候御
約束に候へ共、主計公事(かずえくじ)に延べ申し候
明朝は是にて不断のめしを 参るべく候、かしこ