【原文】
御首尾違不申候処扨々忝候
今朝南禅寺中数寄ニ
昨日御登城之由及承候間
参御報延引申候かしく
内々自之も可申入かと存候キ
廿ニ日者信門も是御出候へ
廿四日北野先約仕候へ共へ
是者申延も安存候何も明
日辺自之可得御意候恐惶
謹言
七月十九日 政宗(花押)
松陸奥守
細越刕様
尊答 政宗
【読み下し文】
昨日御登城の由、承り及び候間(そうろうあいだ)、内々これよりも申し入るべきかと存じ候(そうら)いき。二十二日は信門(しんもん)もこれへお出で候。二十四日、北野へ先約仕いり候えども、これは申し延ぶるも安く存じ候。何れも明日辺り、これより御意を得べく候。恐惶謹言。
御首尾違(たが)い申さず候処、扨々忝(さてさてかたじけな)く候。今朝南禅寺中数寄に参り、御報延 引申し候。かしく
七月十九日 政宗(花押)
「細(川)越州様尊答松(平)陸奥守政宗」
【現代語訳】
昨日、〔伏見城へ〕ご登城されたとお聞きしましたので、内々に私からご招待するべきかと存じました。
二十二日は信門(宣如光従)が私の〔伏見の?〕屋敷にお越しになります。
二十四日はすでに〔ある人(たち)と〕北野へ行く約束をしていますが、この北野行きは容易く延期することができます。
何れにしても、明日あたりに私からご意向をお伺いします。
〔追伸〕あなたのご都合に合わせるということで、
〔ご招待をお受けくださるというお便りをいただき〕
ありがとうございます。
今朝は南禅寺での数寄(茶の湯)に行っておりまして、お返事が遅くなりました。
(元和五年)七月十九日政宗(花押)
「細(川)越州様尊答松(平)陸奥守政宗」
【解説】
宛所の「細越州」は細川忠興(永禄六年〈一五六三〉~正保二年〈一六四五〉)。忠興が越中守を称するのは慶長元年(一五九六)九月~元和六年(一六二〇)閏十二月、この間の元和元年十二月までは羽柴姓を称し、細川姓はそれ以降。政宗の自署・花押の形、七月十九日に政宗が在京していることから元和五年のもの。文中「信門」は東本願寺門主(第十三代〈東本願寺としては二代目〉)の宣如光従(慶長七年〈一六〇二〉~万治元年〈一六五八〉、門主在任:慶長十九年〈一六一四〉~承応二年〈一六五四〉)。
【関連史料】
伊達政宗文書・補遺(九)」(『市史せんだい』所収)所載補号(〈元和五年ヵ〉七月2 5 2 0 9二十日付木下右衛門延俊宛書状)。『仙台市博物館調査研究報告』掲載予定。
本紙、経年の傷み。