本居宣長 本居大平 田中大秀 植松茂岳
Motoori Norinaga/Motoori Ohira/Tanaka Ohide/Uematsu Shigeoka

 本居宣長 本居大平 田中大秀 植松茂岳 1
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作家名
本居宣長 本居大平 田中大秀 植松茂岳 もとおり のりなが、もとおり おおひら、たなか おおひで、うえまつ しげおか
作品名
皇国大人文書集
作品詳細
巻子 合箱
宣長/本紙寸法50.2x16
大秀/本紙寸法42.8x16.7
茂岳/本紙寸法29x16.3cm
註釈

植松茂岳 長歌
【原文】
  県居大人の御像を拝ミて
  よめる長歌    茂岳
青海原へなれる国の外国の道
ふしこえぬ上つ世の直きてふりを
飛騨人の打墨縄の一すちに
したひ給ひて古のまなひの道を
今の世におこし給へるはしけやし
大人のいさをハ遠長くいひつかひ
つゝ人ミなのあふかさらめや
しぬはさらめや。
あかたゐのうしのいさをハ天下
ひろしといへとたくひあらめやも

【訳文】
  県居大人(賀茂真淵)の御像を拝みて詠める長歌    茂岳
大海原を隔てる外国の思想を超えるような、我が国上代の考え方を、飛騨の匠の打墨縄ように一筋に求められて、古代の学びの道を今の世の中に復興された真淵先生の素晴らしい御功績は、末永く言いつがれながら、人々の仰ぐところとなり、しのぶところとならないことがあろうか。
  あかたゐのうしのいさをハ天下ひろしといへとたくひあらめやも
 (真淵先生の功績は天下広しといえどもたぐいなきものである)

石野甚右衛門宛 岡儀右衛門(?)書簡
【原文】
  二白、旧冬之御逗留中旅館へ御
  尋参申入失礼いたし候。甚
  繁多ニ候へハ、御□□つくりに□申候。爾来
  御左右も不承申候。御無異と存候。返々
  御繁多中、御世話なから机板之事
  頼入候。必上木ならてもよく候。
  下直なる事宜候。乍可然義□□
  頼入候。
  又黒柿なとも下直ニ候ハゝ別の物ニ
  いたし度候まゝ、有之候ハゝ尺寸料物等
  御記可被下頼入候。是ハ厨子、又ハ
  重硯箱<一尺一寸四ノ高計之箱也>、其外書案置ニも
  可致候。御当非□□候。御用之旨
  可仰聞候。以上。

御多福御重年大歓奉存候。
小子無事に致加齢候。旧冬者
邂逅之御出府之処、強忙中
不得逸興候而遺恨不少候。其以後
御互ニ繁多、不及書音候。然者
其日御約束致候机ニ作候
料候板、船便御越頼入候。
六尺少より板幅尺弐寸許
〈或尺一寸許かも〉厚一寸許也。木ハ何
等ニ而も不苦候。旧冬物語
申候ことく、会読之時之机ニ候。
但脚ニも板之切を拵致
候半哉。其料別ニ之添候而も
能候也。惣而机十五脚之
料之板所望ニ候。又其外之
料ニも可致候まゝ、余分をも
頼入候。代金被仰聞次第、
早速指進可申候。以上。
 二月八日 岡儀右衛門
石野甚右衛門様

【訳文】
御多福にての御年越、大慶に存じます。わたしも無事に加齢いたしました。旧冬は珍しく御出府のところ、多忙にて御面会できず残念でした。それ以後は、お互いに繁多となり、文通もできませんでした。さて、その日に御約束しました机に作るための板は、船便でお送りくださいますよう御頼み申します。六尺少より板幅尺二寸ばかり〈或いは尺一寸ばかりでも〉厚さ一寸ばかりです。木はどんなものでも結構です。旧冬お話しましたように、会読の時の机でございます。ただし、脚にも板の切れをこしらえるかもしれませんので、その分は別に御加えいただいても結構です。そうじて、机十五脚分の板を所望しております。またその外の用途にも致しますので、余分にお願いいたします。代金はおうかがい次第、早速お送り申します。以上。
 二月八日 岡儀右衛門
石野甚右衛門様

田中大秀 賀茂真淵紹介文
【原文】
「荏名神社」(朱印)
県居大人は遠江国敷智郡岡部郷
加茂大神の神主某主の男にて、元禄十年
に生給ひ、享保十八年、京に登りて稲荷の
荷田東麿大人の教を受、寛延三年、大
江戸に下り給ひて後、田安殿にめされ給ひて、
今も岡部何かしとて、其家ハ有とそ。明和
六年十月三十日、年七十三にて身まかり給ひしとそ。
姓ハ加茂県主、名ハ真淵、通称岡部
衛士と云しとなん。抑此大人、世にうつもれ
はてし大御国の古の道をおこし給ひしを、
これ鈴屋大人受伝まして、弥広に弘め
給へハ、大秀等も其なかれニて学道にハ祖
父命といつきまつる事になむ。されと書給へ
る物多くも見ねは、おほつかなくて、此一ひら
まことかととはるゝにつきて、冠辞考にし
引合見るにたかふ事なけれハかくなむ。
 天保十一年六月 飛騨
          田中大秀
         「田中大秀」(朱印)

【訳文】
  「荏名神社」(朱印)
県居大人加茂真淵先生は、遠江国敷智郡岡部郷の加茂大神の神主某主の息子で、元禄十年にお生まれになり、享保十八年に京に登って伏見稲荷の荷田東麿大人の教えを受け、寛延三年、大江戸にお下りの後は、田安殿に召され、現在も岡部何がしといって、その家はあるとのことです。明和六年十月三十日、年七十三で御逝去されました。 姓は加茂の県主、名は真淵、通称岡部衛士ということです。そもそもこの先生は、世の中に埋もれていた我が国の古代の考え方を復興なされまして、これを鈴屋大人本居宣長先生が受け伝えまして、いよいよ広められました。わたくし大秀なども、その流れでありまして、学問の道では祖父命と崇め奉っております。しかし、お書きになったものも多くは見られませんので、覚束ない気持ちで、この一枚も本当かと問われますので、真淵先生の『冠辞考』を引き合わせて見たところ、間違いありませんので、このように記しました。 天保十一年六月 飛騨  田中大秀 「田中大秀」(朱印)

本居宣長 鈴木若狭宛書簡
【原文】
一筆致啓上候。甚暑之節、
愈御安好御座被成候哉、承度奉存候。
愚老無事罷在候。乍慮外
御安念可被下候。先達而二月の頃
御状被下、相達致拝見候。愚老儀も
去年霜月より紀州へ罷越、当
二月下旬致帰国、又々三月末より
致上京、漸当月十二日致帰郷候。
右ニ依て御返事も大ニ致延引候
条、御用捨可被下候。
一、諸子入門誓詞六通御集メ御越し
被成致落手候。
一、井本彦馬生、詠草并菓子料
一包致落手候。乍慮外宜御挨
拶被成可被下候。詠草御転達可被下候。
一、貴君よりも方鐐壱片御贈恵
被入御念候御儀、忝致受納候。
一、先達而御頼申入候古事記題歌、未タ
参り不申候。扨々待兼申候。何とそ何とそ
早々御集メ御越し被下候様ニ致
度奉頼候。先者乍延引、右御報
旁如此御座候。尚期後信、取込
草々、恐惶謹言。
          宣長
 六月二十六日
鈴木若狭様

【訳文】
一筆啓上いたします。酷暑のみぎり、いよいよ御清祥でいらっしゃいますか、承りたく存じます。愚老も無事にまかり過ごしております。慮外ながら御安心ください。先だって二月の頃にお手紙下され拝見いたしました。愚老儀も去年十一月より紀州へ参りまして、当二月下旬に帰国いたしました。そして又三月末より上京し、ようやく当月十二日帰郷したところでございます。右の次第で、御返事も大いに延引いたしましたこと、御容赦くださいませ。
一、諸子の入門誓詞、六通御集めになりお使わしくださいまして落手いたしました。
一、井本彦馬君の詠草ならびに菓子料一包、落手いたしました。慮外ながらよろしく御挨拶のほどお願いいたします。(朱入れした)詠草は御転達お願いします。
一、貴君からも方鐐(二朱銀)一つ御恵贈下さり、お心入れのこと、かたじけなく拝受しました。 一、先だって御頼み申しました「古事記題歌」(『古事記頒題歌集』寛政十年刊)の件、未だいただいておりません。さてさて待ちかねております。何とぞ何とぞ、早々に御集めくださいましてお送りくださる様にお頼み申します。まずは延引しましたが、御知らせかたがた右の通りでございます。なお、後便を期したいと存じます。取込草々、恐惶謹言。
六月二十六日 宣長
鈴木若狭様

※文中及び宛名の人名・書名等、すべて実在する。「古事記題歌」の刊行年次よりみて寛政九年頃の書簡と推定される。

本居大平 田中大秀宛書簡1
【原文】
  いせの国も四月より今月まで
  あかもかさ流行、一統ニ
  毎家相ふし申候。私方も
  此節家内四五人右体ニ
  居候。いつれも無難ニ凌申候。
 (頭注)玉かつま第四ニアリ

三月十日御状、四月京より
転達、忝致拝見候。先以
貴家御揃御清泰被成御座候
条、大悦奉存候。此表、拙子無異
罷在候。乍憚御休意可被下候。
先達而賀宴之節御頼
之色紙とも、御入手御覧被下候
由、先者御慶事相済、目出
度奉存候。〇飛騨国神社考・
和名鈔地名考、御認御見せ
被下忝、右評も何も存寄も
無御座候。其内、存寄候ハヽ、相認
可申上候。其外、御紙面逐一
承知候。万々期後音之時候。
恐惶謹言。
    本居三四右衛門(花押)
 五月十八日
田中弥兵衛様

【訳文】 (尚書)伊勢の国も四月から今月まで、「あかもかさ」が流行しまして、一帯の家すべて、病人が出ております。私方も現在家内四五人が病床に臥せっておりますが、いずれも無難に凌いでおります。(頭注)『玉かつま』第四にあり。

三月十日のお手紙、四月に京より転達されまして、忝けなく拝見しました候。まずもって貴家様御揃いで御清泰のこと、大悦に存じます。こちらは、わたくし無異に過ごしております。憚りながら御安心くださいませ。先だっての賀宴の節に御依頼の色紙など御高覧ください。まずは御慶事を済まされ、目出いことでございます。
〇『飛騨国神社考』・『和名鈔地名考』、御書きなされ御見せくださいましてかたじけなく存じます。その批評をというのは、何も存じ寄りございません。その内に、思いつきましたら、認めて申し上げます。その外、御紙面のおもむき、逐一承知いたしました。万々後便を期します。恐惶謹
言。 五月十八日  本居三四右衛門(花押)
田中弥兵衛様

本居大平 田中大秀宛書簡2
【原文】
田中弥兵衛様
  尚々先日も申上候歟。わすれし。
 江戸南新堀冬木横町
 渡辺屋東吉郎和泉和麻呂
右ハ故翁在京之節、入門ノ人也。
去年十月より右宅ニて万葉と
古事記伝との講尺相始メ、
同友八九輩、其外故翁門人
なと集会、神ノ道、御国ノ道を
専ら修学候由ニ御座候。毎々
ちまちま文通致し候。貴家よりも
江戸便りニ御文通可被成候。
故大人を甚信学候人也。
貴君御詠なと写し見せニ御遣し
可被下候。以上。
  近詠
  虎       大平
とらの口にけてのか
れて狩人もおのか命
を得物にそする

【訳文】 田中弥兵衛様
  尚々、先日も申し上げましたでしょうか、わすれました。
 江戸南新堀冬木横町  渡辺屋東吉郎和泉和麻呂
右の人は故翁(宣長翁)が在京の時に入門した人です。去年十月から右の宅で、万葉と古事記伝の講釈を始め、同友八九輩やその外の故翁の門人などが集会し、神の道、御国の道をもっぱら修学している由です。いつもこまごまと文通しております。貴家からも江戸便のおりにでも御文通なさってはいかがでしょうか。故翁を大変信学している人です。貴君の御詠なども写してお見せください。以上。
  近詠
  虎       大平
とらの口にけてのかれて狩人もおのか命を得物にそする
(解文 虎の口逃げて逃れて狩人も己が命を獲物にぞする)
(訳文 虎の口から逃げてくる狩人は自分の命を的にするのであろうな)