松平定敬
弘化3年(1847)~明治41年(1908)
美濃高須藩主松平義建の7男。安政6年(1859)、桑名藩主松平猷の養子となり家督を継ぐ。元治元年(1864)、京都所司代に任じられて、京都守護職の会津藩主松平容保を支えて京都の治安維持にあたる。戊辰戦争を転戦し、幕府崩壊後は兄容保と袂を分かち、終始、慶喜と行動を共にし、明元年(1868)、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜に従い江戸に逃れ、霊巌寺にて謹慎する。時を同じくして、桑名藩の留守を預かる家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一し、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。同年10月、函館の榎本武揚に合流し新政府軍に対して徹底抗戦をするが、翌明治2年5月、新政府に帰順し、江戸の藩邸にて永禁錮処分を受ける。明治5年(1872)1月、謹慎を解かれ、その後、西南戦争に参加。明治27年(1894)、日光東照宮宮司に就任した。松平容保、徳川慶勝、徳川茂栄とともに高須四兄弟の一人。
【原文】
問余何事栖碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地非人間
(李白)
【訓読】
余に問う 何事か碧山に栖むと
笑って答えず 心自ずから閑なり
桃花流水 杳然として去り
別に天地の人間に非ざるあり
【訳文】
人は聞く。こんな青くそびえる山に住むのはどうしてか。
心は静かなままに私は笑って答えない。
桃の花びらが、川をゆったりと流れていく。
ここは、(世俗とは)別の世界なんだよ。
優品です。