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北山杉 川端康成
小泉信三先生を中心にのやうにした雑誌「新文明」の和気清三郎氏が、小泉先生の追悼録を編纂する時、私にも参加をもとめてくれて、それはありがたかったが、私はおろそかには書けないし、また小泉先生の文藝随想をできるだけ多く読んだ上でと思ふうちに、執筆の機を逸した。●々に書けば、私の自慢が先立つのは必定で、それをつつしみたいためらひもあつた。今、全集月報のこの文章はまことに短く限られ、私の自慢だけを書くが、私の自慢は私の感想にほかならない。私の自慢そして感想とは、小泉先生が私の「古都」をなどの「愛讀者」であつたことである。小泉先生からいただいた手紙の一通のなかに、
「小生その後も『古都』熱いまだ去らず、映畫を二度見に行きました。その事を『新文明』いふ雑誌に書きました。出たらお送り
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いたしますから御笑覧下さい。その原稿を使の者に渡し、その序に郵便受けを見ると御手紙が入つてゐたので、奇遇のやうな気がしました。」
三十八年三月四日づけの手紙である。前にも、「古都」ついて手紙をいただいてゐた。小泉先生は皇太子殿下同妃殿下や、いろいろの人に「古都」を讀むやうにすすめられ、皇居で、映畫「古都」を御覧に入れられた。鎌倉の近所に住む岡部長二氏の仲立ちによつて、私は小泉先生から麻布のうなぎ屋に招かれたが、その時、小泉先生は私に下さるために、北山杉の大きい写真を額縁に入れて持って来られた。京都の北山杉は「古都」の主要な舞台で、小泉先生はそこを見にいかれたよしである。島田氏撮影のその写真は朝日新聞PR版の當時の編集長齋藤一氏が小泉先生に差上げたもので、實は私も齋藤氏から同じではないが似た写真を二葉もらっていた。私はそれをかくしてだまっ
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ていただいておくわけにはゆかないから、小泉先生のなみなみでないこころざしを祈るやうだが、それを言った。小泉先生の死後、日本橋三越での「小泉信三展」に、逝去の時の書齋が移写されて、その机の上に「古都」がおいてあったと、私は人から聞いてしいんとなった。私も「小泉信三展」を見たのだが、気づかなかった。
私の自慢そして感想だけを書いたが、しかし、そして人生萬事、例へば文藝にたいする態度を、私は感じられると思ふのである。「古都」がこのやうな知遇に價ひするかいなかはとにかく、小泉先生は一つの作品を好み愛されと、このやうだったのである。私ばかりでなく、日本の文学者は、高く大きい鑑賞家の一人を失ったのである。
例えば「わが文藝談」の鴎外、漱石観などのやうに、小泉先生の批評眼に強いきびしさのあったことも勿論である。海軍主計大尉小泉信吉」などのやうに、小泉先生自身も立派な文学で書かれた。
『川端康成全集(新潮社 / 1982年)第28巻』、『小泉信三全集月報11号』所収。
美品