松下幸之助 Matsushita Kounosuke

和歌山県海草郡の農家に生まれる。日清戦争の後、父親が米相場で失敗。破産により、6歳の頃、比較的裕福な生活が一変する。父親が和歌山市内で下駄商を始めるが、二年余りで閉店。このころ二人の兄、姉を亡くす。単身で大阪に出ていた父からのすすめで、小学校4年のとき、火鉢屋の丁稚奉公を始める。火鉢屋の都合により自転車屋へ奉公先を変える。自転車がだんだんと普及し店も大きな問屋となった頃、大阪市の電鉄敷設の計画により、世の中が変わってくると、電気事業の将来に興味を持ち、煩悶の末、6年間世話になった奉公先から出る。17歳、大阪電燈に就職する。3ヶ月で見習い工から電燈工事担当者になる。20歳、同僚に刺激を受け関西商工の予科に入学し、本科電気科に入るが退学。大正4年、21歳のとき見合いで結婚する。2年後、検査員に昇進するが、仕事内容にもの足らず、同時に自分で改良を重ねていたソケットの製造をすることを決意し退職、妻の弟井植歳男、元同僚2人で自宅にて製造販売を始める。業績不振から井植歳男と2人となると、思いがけず大口の扇風機の煉物の注文を受け、収益を上げる。大開町の借家へ移り、アタッチメントプラグの製造を始めると軌道に乗り始め、従業員も雇うようになる。大正7年、松下電気器具製作所を創設し、4年後に同町に工場を新設、従業員も30人ほどになる。大正10年、長女幸子誕生。電池ランプ(自転車ライト)の製造販売により躍進的に業績が伸び、販売地域も拡大、代理店制度を取り入れる。大正15年、長男が誕生するが、昭和2年、病死する。スーパーアイロン、ラジオなどで売り上げを伸ばし、昭和10年、松下電器産業株式会社に改組、翌年にはナショナル電球(株)を設立。昭和36年、社長辞任し、会長に就任すると、京都に「真々庵」をつくり、そこで中断していたPHP研究を再開。昭和48年、会長を辞任し相談役に就任する。昭和55年、松下政経塾を開く。勲一等瑞宝章、勲一等旭日桐花大綬賞受賞。

松下幸之助 天心
天心

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