山崎弁栄展

☆記念シンポジウム 河波昌 (東洋大学名誉教授)×若松英輔 (文芸批評家)

平成22年10月31日(日) 午後2時〜午後3時30分 県民文化ホール未来会館 入場無料

☆定員になり次第締め切ります。入場のご予約、お問い合わせは長良川画廊まで。

■河波昌(かわなみ あきら)

1930年(昭和5)京都に生まれる。1960年(昭和35)京都大学大学院文学研究科博士課程修了し、東洋大学に就職。同大学付属東洋学研究所所長などを歴任。2000年(平成12)同学退職。その間、明治大学、上智大学(大学院)、聖アントニオ神学院等の非常勤講師、文部省学位授与機構専門部員(哲学神学部門)、放送大学講師等を歴任。現在、東洋大学名誉教授。宝塚造形芸術大学大学院講師。米国学士院終身特別名誉会員。前東西宗教交流学会会長。日本宗教学会(名誉会長)。比較思想学会、日本ヤスパース協会、日本クザーヌス学会等の理事評議員。空外記念館前理事長、現在名誉館長。また、浄土宗の僧侶であり、光明修養会上首である。僧名河波定昌。著書に『大乗仏教思想論攷』『東西宗教哲学論攷』『浄土仏教思想論』『形相と空』『場所論の種々相』など。論文に「visio Deiの諸相」(日本クザーヌス学会)「形相と空(独文)」(ウイーン大学哲学年報)など。文学博士。宗教哲学者。

■若松英輔(わかまつ えいすけ)

1968年(昭和43)新潟に生まれる。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。批評家。2007年(平成19)『越知保夫とその時代』で第14回三田文学新人賞受賞。 著書に『井筒俊彦―叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会 2011)『神秘の夜の旅』(トランスビュー 2011)がある。また『読むと書く―井筒俊彦エッセイ集』、『小林秀雄―越知保夫全作品』を編集。訳書には、『メディカルハーブ安全性ハンドブック』『ミッチェル・メイ・モデル』がある。

(企業家としての横顔)

1992年(平成4)日本最大のベビー用品総合メーカー、「ピジョン株式会社」に入社。1999年(平成11)ピジョン100%出資の系列会社「ピジョン・クオリティ・オブ・ライフ株式会社」の代表取締役に就任。ハーブサプリメントをシリーズ展開する日本初の企業となる。同じころ、妻惠子が乳がんを患う。仕事の傍ら、妻の治癒を促す製品を探してアメリカ、ヨーロッパ各国を訪ねる。2002年(平成14)「有限会社ディオスコリデス」を起業。シナジーカンパニーの総代理店となる。日本におけるハーブサプリメントの第一人者としてその開発を手がける。2005年(平成17)社名を株式会社「シナジーカンパニージャパン」に変更。シナジーカンパニー唯一の国外法人の代表取締役に就任。2010年(平成22)2月、妻惠子死去。シナジーカタリナ財団の設立とともに、妻の10年の闘病生活と死を通して経験した、生命、健康に関する講演を行っている。

■山崎弁栄(1859〜1920)略歴

1859年(安政6)下総国手賀村鷲野谷(現在の千葉県柏市鷲野谷)の浄土宗篤信の農家に生まれる。幼名、啓之助。

*父嘉平は、朝は未明に起床し称名に励み、毎月15日は、白衣白帯を身につけ、日没にいたるまで念仏を称えた。打つ 鉦の音は村々にとどき、いつしか念仏嘉平と呼ばれた。

1879年(明治12)20歳、小金(現在の千葉県松戸市小金)の東漸寺大谷大康老師のもとで得度、弁栄を名乗る。1882年(明治15)、筑波山で二ヶ月に渡る念仏三昧の難行を行い、一心法界の境地深める。1885年(明治18)一切経七千三百三十四巻を読了。翌1886年(明治19)五香(現在の千葉県松戸市五香)の説教所を復興し、新寺(後の五香善光寺)建立のための勧進の巡行を始める。また、1890年(明治23)には、浄土宗本校(大正大学の前身)新築のための資金勧募の責務も負い、勧進の巡行は関東一円から信州方面に及ぶ。

*この資金勧募は、単位を一厘とした勧進一厘講、弁栄の描く書画(仏画や書、米一粒に南無阿弥陀仏と書き込んだ「米粒名号」など)を施すことによって行われたが、むしろその目的は、それを機縁とした伝道の旅であった。以来、弁栄は、巡行に次ぐ巡行の生涯を送る。

1895年(明治28)インド・ブッダガヤ参拝。1900年(明治33)、三河巡錫中、肺炎を患い、新川町(現在の碧南市)の法城寺に滞在。1901年(明治34)美濃富秋村(現在の岐阜県揖斐郡大野町)心楽庵にて住生論註を講義。

*弁栄は、岐阜県美濃地方には幾たびも訪れ、墨俣(現在の大垣市墨俣町)から穂積(現在の瑞穂市穂積)まで、小学生多数をひきつれ、阿弥陀経を読みアコーディオンを演奏しながら行進した。また、揖斐郡大野小学校では講演を行った。

1912年(明治45・大正元年)九州各地を初巡錫。1913年(大正2)筑前福間(現在の福津市)大善寺にて、初めて光明主義教学の組織的講義をする。筑前若松(現在の北九州市)善念寺にて、「宗祖の皮髄」と題し法然上人の道詠十二首についての講話を行う。

*弁栄は、その生涯を浄土宗の僧として生きるが、それは一宗一派の教義に生きるということではなく、法然の血脈を 相承し、法然の真の教えを通じて、釈尊仏教の根本に帰ることであった。そして、その道筋を体系化し、その思想を「光明主義」と名付けた。

1915年(大正4)美濃にて「光明会礼拝式」発行。1916年(大正5)「光明会礼拝式」を改訂し「如来光明礼拝儀」発行。知恩院教学高等講習会で「宗祖の皮髄」と題し講演。この講演録を弁栄が添削し、「宗祖の皮髄」として知恩院より出版される。1917年(大正6)朝鮮半島から中国東北部を巡錫。1918年(大正7)当麻山無量光寺第六十一世法主となる。1919年(大正8)光明学園(現在の光明学園相模原高等学校)を創設。1920(大正9)同年11月17日、越後巡錫中、柏崎極楽寺にて病床に伏す。同年12月4日早朝、木蘭の袈裟を布団の上から掛けさせ説法。同日、6時5分、念仏を称名しつつ遷化。世寿61歳。

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