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浄土教系
K-126 田中智学

K-126 田中智学
Tanaka Chigaku

学びのこころ掲載作品

 田中智学 1
 田中智学 2
 田中智学 3 田中智学 4
作家名
K-126 田中智学 たなか ちがく
作品名
思無邪
価格
200,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 絖本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法75.8×161.2
全体寸法89.8×226㎝
作家略歴

田中智学
文久元年(1861)~昭和14年(1939)

江戸日本橋本石町に生まれる。本名、巴之助。幼名、秀丸。別号、巴雷、鐘宇など。田中家は、代々、美濃国日置江村茶屋新田(現在は岐阜市茶屋新田)で庄屋を勤める旧家であった。祖父田中意隆は、庄屋を勤めながらも、岐阜に出て医業を始める。父玄龍は、25歳の時、江戸へ出て医者となり、大垣戸田藩江戸藩邸で待医も勤める。また、熱心な法華信者であった。

明治3年(1870)10歳、東京一之江(現在の江戸川区一之江)の日蓮宗妙覚寺智境院日進の元で得度。智学の名を授かる。明治4年(1871)11歳、下総国飯高村(千葉県八日市場市)の飯高檀林に入る。明治8年(1875)15歳、飯高檀林が廃絶になり東京に戻り、日蓮宗大教院に入学。明治9年(1876)16歳、大病を患う。明治10年(1877)17歳、日蓮宗大教院を退学する。明治12年(1879)19歳、還俗。明治14年(1881)21歳、横浜に蓮華会設立。明治17年(1884)24歳、立正安国会の活動を始める。明治19年(1886)26歳、日本橋蛎殻町に本部「立正閣」を創建。明治20年(1887)27歳、『仏教夫婦論』刊行。明治22年(1889)29歳、『仏教僧侶肉妻論』執筆。明治23年(1890)30歳、内閣修史局長官重野安繹による日蓮の滝口法難の事蹟を否定した論考に対し、それを論駁した『滝口法難論』を講演、刊行する。明治30年(1897)37歳、月刊誌『妙宗』創刊、日蓮教学の体系化をはかる。明治34年(1901)41歳、「本化摂折論」の講演を行う。『宗門の維新』発表。高山樗牛、同書に強く共鳴する。明治35年(1902)42歳、立正安国会の教義大綱となる「本化妙宗式目」完成。明治42年(1909)49歳、『日蓮主義』創刊。明治43年(1910)50歳、『日蓮聖人の教義』刊行。明治44年(1911)51歳、「日本国体学」提唱。明治45年(1912)、『国柱新聞』創刊。大正3年(1914)54歳、「国柱会」創立。大正7年(1918)58歳、東京鶯谷に国柱会館落成。大正9年(1920)60歳、日刊『天業民報』創刊。大正10年(1921)61歳、「国民劇研究会」創立。宮沢賢治、国柱会入会。昭和4年(1929)69歳、『大国聖日蓮上人』刊行。昭和14年(1939)79歳、11月17日、死去。

(主に『田中智學先生略傳 / 師子王文庫』より作成)
コンディション他

 田中智学を論じるに、石原莞爾、大川周明、井上日召、北一輝、牧口常三郎らに影響を与えた近代日蓮主義運動の指導者として位置づけ、その思想と活動が日本の敗戦に至る政治イデオロギーとどのように共鳴していったか、あるいは宮沢賢治を熱狂させ、高山樗牛に深い感銘を与えたように、日本人の精神史にどう関わったかを論じることが、一般的な考察であるように思う。しかし、それは、歴史というものを感じることはできても、そこに生きた一人の人間の真実に迫ることはできないのである。歴史の真実もまた、そこに生きた一人の人間のなかにしか発見することはできないのである。

 田中智学は、明治34年(1901)41歳の時に著した『宗門の維新』によって、宗門の改革のみならず、広く日本国民に向けて、日蓮信仰による国家の建設と、世界平和の実現を説いた。智学にとっての願行は、日蓮を上行菩薩と仰ぎ、世界中の人々を法華経の行者とすることであった。田中智学の描く、法国冥合(政教一致)の理想世界と、それを実現するための激しい折伏の姿勢を、田中智学は自ら日蓮主義と呼んだ。私たちにとって重要なことは、田中智学の歴史的評価ではない。そんなことは実につまらないことだ。私たちは、田中智学のなかに日蓮を見なければならない。田中智学は、法華経及び日蓮教学についての膨大な著述を残している。これは近代の宗教家として特筆すべきことである。そのなかで日蓮主義について書かれたものは、田中智学によって当世風の文言に置き換えられてはいても、すべて日蓮の言葉である。日蓮ならこう語るであろうと信じて書かれた日蓮の言葉である。日蓮は自らを、「日蓮ハ一閻浮第一ノ聖人ナリ」といった。また、「我日本ノ柱トナラン、我日本ノ眼目トナラン、我日本の大船トナラン」といった。また、「日蓮ニヨリテ日本国ノ有無ハアルベシ」とまでいった。また他宗に対しては、「念仏無問禅天魔、真言亡国律国賊、諸宗無得道堕地獄ノ根源、法華経独リ成仏ノ法ナリ」といった。また、「一切ノ念仏者禅僧ラガ寺塔ヲバ焼キ払ヒテ、彼等ガクビヲ由比ノ浜ニテ切ラズバ、日本国必ズ滅ブベシ」とまでいった。対して田中智学は、「一日も早く天下の邪教を撲滅して! すなわち迷界の民をその邪毒より抜済して! 天下万民諸乗一仏乗となすにあらざれば、わが人界受生妙法受持の本分全からざるなり、願わくばわが一生涯にこの大願を達せん。もしあたわずんば子孫をしてこの栄を見ることを得せしめん。大日本国成仏せずんば、われ成仏すべからずと念ぜよ。皇室、憲法、議会、政府、ないし人民、すべてことごとく発迹顕本して、唯一妙道に帰融せざれば、死するとも瞑するなかれ。仏召すとも起たざれ、天招くとも行かざれ。たとい王侯の位を授けて誘うとも、この洪願を捨てざれ。たとい父母の頸を刎ねんと嚇すとも、この主張を抛たざれ。万艱一時に来たるとも、ゆめゆめ退くべからず。これ日蓮門下の生命なり。日蓮主義の錬槌によりて鍛えあげたる、真正の日本的気節なり、日本的徳操なり。この心一刻も去らば、すなわち「妙宗」もなく「日本」もなしと観よ。」(宗門の維新)といったまでである。
 思想家内村鑑三はその著『代表的日本人』のなかで日蓮を、「彼の教義のほとんどは、今日の批評学の試験に耐えられないことを私は認める。彼の論争の仕方は上品ではない。そして彼の全体の調子は正気ではない。彼は確かにバランスを欠いた性格だった。あまりにもただ一つの方向にだけ尖鋭だった。しかし、彼からその知識的誤謬、遺伝的な激しい気質、そして彼の時代と環境がその上に印した多くのものを剥ぎ取って見よ!そうすれば諸君は骨の髄まで真実な一個の霊魂、人間の内で最も正直な人、日本人の内の最も勇敢な人物を持つのである。」と書いた。『人間の内で最も正直な人、日本人の内の最も勇敢な人』、これ以上、人間にとって大切な価値はないではないか。宗教とは、その「真実な一個の霊魂」に至る一つの道筋である。信仰とは、その「真実な一個の霊魂」の存在を信じる人々の様々な誓いの姿である。田中智学は、日蓮のなかにまざまざと「真実な一個の霊魂」を見た。見るとは信じるということである。田中智学は、日蓮を信じ、私たちに日蓮を伝えるために、すべてを生きた人である。私たちもまた、田中智学を信じなければ、田中智学の真実を掴むことなど到底できないことである。

(補記)
冒頭、《田中智学を論じるに、石原莞爾、大川周明、井上日召、北一輝、牧口常三郎らに影響を与えた近代日蓮主義運動の指導者として位置づけ、その思想と活動が日本の敗戦に至る政治イデオロギーとどのように共鳴していったのか》と書いた。この敗戦にいたる政治イデオロギーの、その中心にあったものは、石原莞爾、大川周明に代表される、東アジアにおける日本の政治構想である。その一方で、孫文の大アジア主義を継承し、民族の独立を目差した汪兆銘ら中国人革命家たちがいた。彼らの理想もまた、日本の敗戦とともに滅び、彼らの多くは漢奸(売国奴)として、日本人指導者以上に悲惨の運命を辿った。今回ご紹介する新収集品に、汪兆銘以下、現在の中国においては、漢奸として歴史の裏側に追いやれた中国人革命家たちと、松井石根他日本人指導者を含む、貴重な揮毫帖がある。そこに見えるものもまた、その時代を誠実に勇敢に生きようとした人々の真実の姿と、私たちが忘れてはならない真実の歴史である。田中智学の遺墨と併せて、皆様にご紹介いたします。

汪兆銘以下南京国民政府関係揮毫帖

※内村鑑三『代表的日本人』の日本語訳は、岩波文庫版、筑摩書房明治文學全集版よりも、以下Webサイト、「代表的日本人-日蓮-内村鑑三 私訳」の方が優れているので、それを引用しました。

「良い本を電子化して残そう」

《思無邪》

予の改革論の大綱は、「宗法」において、「復古的態度」を採り、「制度」において「進歩的態度」を採り、しかして全体において退嬰主義を破って、「侵略的態度」を採らんとするものなり。(中略)何をか「侵略的態度」と言う、いわく、宗教および世間のもろもろの邪思惟邪建立を破って、本仏の妙道実智たる、『法華経』能詮所詮の理教をもって、人類の思想と目的とを統一する「願業」これなり。(宗門之維新)

元々の出自は、『論語』為政篇の「子曰、詩三百、一言以蔽之。曰思無邪。(子いわく、詩三百、いちげん以って之を蔽えば、いわく、よこしま無し。)」
これは、論語のなかで、孔子が詩経を評して、一言、「思無邪」と言っているのであるが、この「思無邪」の語句は、詩経にある魯頌(ろしょう)駉(けい)編の中の一句から取り出したものといわれる。

作品は、田中智学の遺墨として他に類をみない優品である。