卍山道白
Manzan-Douhaku

卍山道白2
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作家名
卍山道白 まんざん どうはく
作品名
書状
題詞・森田悟由
跋文・新井石禅、
作品詳細
紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法(卍山部分)89.5×15
巻子全体寸法(胴幅)273×17.6p
註釈

森田悟由
天保5年(1834)〜大正4年(1915)

尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)に生まれる。天保11年(1840)、7歳の時、名古屋の大光院泰門和尚について得度。江戸駒込の吉祥寺学寮で学んだのち、諸岳奕堂に師事。万延元年(1860)、尾張国陽仙院天瑞白龍の法を嗣ぐ。明治27年(1894)、永平寺64世に就任。永平寺東京別院にて遷化。

新井石禅
元治元年(1865)〜昭和2年(1927)

陸奥国伊達郡梁川村(現、福島県伊達市梁川町)に生まれる。幼名、仙次郎。明治9年(1876)、石井家の菩提寺である興国寺の新井如禅の養子となり、新井石禅と改名、新井如禅のもとで得度。曹洞宗専門本校を首席で卒業後、26歳で曹洞宗大学林(現駒澤大学)の教授兼学監となる。善徳寺、浄春院、大栄寺、雲洞庵、護国院、最乗寺などに歴住し、永平寺副監院、總持寺西堂を経て大正9年(1920)、大本山總持寺貫首、曹洞宗第11代管長となる。

仁王山主遼空
詳細不明。
名古屋市東区に、仁王山護国院(永平寺名古屋別院)があり、そこの持住と思われる。

卍山道白
【原文】
孟春十五日之
芳染、六月二日ニ
寅晢持参、始而
落手、再三到
薫誦候。殊更
方金二片御贈
投、毎度御懇等
之至、早頭ニ不
得謝答候。忝致
頂戴候。此節弥
御安全之由、伝承
折然之至候。拙老
事、宗門中用事
ニ付而六月以来
滞留申候。様子ハ
寅晢長老、大底
吐露可有候と拝候。
楞厳会回向ノ事
雪音、心を板ニ雕リ
上候。其之前と相
違、如何ニ候ヘ共、遠方ノ
義、往々如此ニ成リ申候。
三幅対の掛物ノ義、
晢長老ニ申候ヘ共、御
存知之通ニ拙僧悪手
故、床上ニ掛ケ申候物ハ
一字も書キ不申候。左様ニ
御心得可申上候。殊更
此節不得寸暇、内外
粉庄候故、艸々奉復候。
恐惶不悉
八月十八日 卍山和南

長年寺方丈和尚
    侍者中
 尚々永平寺祖
 面授巻新刻
 一本を回春迄ニ
 御届候。来春迄も
 滞留可申哉と存候。
 来春御年頭ニ御出
 之砌、可打清話候。
 以上。

【訳文】
 孟春(一月)十五日のお手紙を、六月二日に寅晢(僧名であろう)が持参したので、始めて落手し、再三にわたり拝読しました。特に、方金(方形の金貨)二片をお贈りくださり、いつもながら御懇志のいたりで、すぐにお礼も申し上げることができません。かたじけなく頂戴いたします。
 最近はいよいよ御安泰とのことを伝え承りまして、よろこばしいことです。わたくしも宗門関係の用事がありまして、六月以来滞在しております。こちらの様子は寅晢長老が、おおかたは申し上げたことと拝察申します。
 楞厳会の回向の事は、雪音(円鑒雪音か)が心を板に彫ってみました。以前とは変わってしまい、どうかとは思いますが、遠方のことで、しばしばこのようになってしまいました。
 三幅対の掛物のことは、晢長老に申しましたが、御存知のように、拙僧は筆跡が悪いので、床上に掛けるような物は一字も書くことができません。そのように御心得くださいますようお願いいたします。
 特に最近は寸暇もなく、内外騒々しいので、だんだんとご返事申します。

                            八月十八日 卍山和南

長年寺方丈和尚、侍者中
 なお、永平寺祖(道元禅師)の『正法眼蔵』の面授巻の新刻本一本を来春までにお届けいたします。来春まで滞在するかと存じます。来春の年頭にお出かけのおりに、お話申し上げたいと存じます。以上。

※卍山道白は宗門改革のため、65歳の元禄13年(1700)5月に京都鷹峯の源光庵を出発して江戸に向かい、6月上旬に江戸に到着し、芝の瑠璃光寺に寄寓していることから、本書簡はまさにその年の8月13日付のものと考えられる。なお、文中の『正法眼蔵』の面授巻は前年元禄12年(1699)64歳の時に既に刊行を見ている。

新井石禅

【原文】
莫言獨遁名拂迹
々彌生松柏易誇操
芝蘭難覆馨縱令
三目竪未及両眉横
若領箇中意伯
夷何守清

右卍山禅師慈訓録代
禅師手簡後序
大正元年十一月中浣
雲洞石禅和南(印)

【読み下し】
言(い)ふ莫(なか)れ、独(ひと)り名(な)を遁(のが)れ迹(あと)を払(はら)ふと。迹(あと)弥(いよいよ)生(しよう)ず。松柏(しようはく)誇(ほこ)り易(やす)く、芝蘭(しらん)操(そう)するも馨(かをり)を覆(おお)ふこと難(かた)し。縱令(たとひ)三目(もく)竪(た)つるとも両眉(りようび)の横(よこ)たはるには及(およ)ばず。若(も)し箇中(かちゆう)の意(い)を領(りよう)せば、伯(はく)夷(い)すら何(なん)ぞ清(きよ)きを守(まも)らん。 右卍山禅師(まんざんぜんじ)慈訓録代(じくんろくだい) 禅師(ぜんじ)手(しゆ)簡(かん)後(こう)序(じよ)
大正元年十一月中浣(ちゆうかん)
雲洞石禅和南(印)

【現代語訳】
名を遁れ事跡を払おうなどと、言ってはならない。どんなに独りで有名になることや、事跡を残すことを避けようとも、次から次へと事跡は生まれてくる。夏目立たぬ松(まつ)や柏(かしわ)の木も、冬になると隠しようがなく目立ってくるものである。また香りを放つ霊芝や蘭をどんなに操作しようとも香りを覆い隠すことはできない。たとい目を三つ付けて多くを見ようとしたとしても、両方の眉を横たえて(中央に眉を寄せて深く思考する表情をいうか)思考するのには及ばないのである。もし一個人の心を本当に支配することができるなら、武により暴君殷王を亡ぼした武王に対して、その下で暮らすことを清しとせず餓死した伯夷と叔斉、その伯夷と叔斉でさえ清い行いを貫くことは出来なかったでありましょう。
 まことに卍山禅師は、隠そうとしても隠しきれない事跡を上げ、自分の目で心の中をしっかりと見つめ、外の支配を受けることのない人物であった。

右卍山禅師慈訓録代 禅師手簡後序
大正元年(一九一二)十一月中旬
雲洞石禅和南(印)

(注)
・伯夷(はくい)・・伯夷、叔斉の兄弟をさす。古代王朝殷の人物で、父孤竹君は弟の叔斉に国を譲ろうとしたが、兄の伯夷ともども譲り合って受けず、国を去り周にゆく。後ち周の武王が殷の紂王を討とうとしたとき、諌めるが聞き入れられず、武により殷を亡ぼした周の粟(穀物)は食べることができないとして清を守り餓死する。

仁王山主遼空
【原文】
寛永十二地産斯仁
天性不凡幼志出産
名改道白備後之人
字称卍山褐依文春
朝参暮請提撕命親
後投月老甘苦甞辛
世壽卅歳大發願輪
誓整宗弊為此忘身
嗣承亂脉韡正背真
一師卬評捨邪侈淳
遂達台聴漸得革新
永平門下傳燈主賓
幾十睡万皆被其鴨
噫戯歟兮 卍老徳
道斬遠闇至可振
大正元年
壬子十月
仁王山主遼空(印)

【読み下し】
寛(かん)永(えい)十二地(ち)産(さん)にして、斯(こ)れ仁(じん)にして天(てん)性(せい)不(ふ)凡(ぼん)、幼(よう)にして志(こころざ)し、産(さん)を出(い)で、名(な)を道白(どうはく)と改(あらた)む、備(びん)後(ご)の人(ひと)なり。字(あざな)を卍山(まんざん)褐(かつ)依(い)文春(ぶんしゆん)と称(しよう)す。朝参(ちようさん)暮請(ぼせい)し、提撕(ていせい)すること親(しん)に命(めい)す。後(の)ち月老(げつろう)に投(とう)じ、苦(く)に甘(あま)んじ辛(しん)を嘗(な)む。世(せ)寿(じゆ)卅歳(そうさい)、大(だい)発(ほつ)願(がん)し誓(ちか)ひを輪(わ)して、宗弊(しゆうへい)を整(ととの)へんとし、此(これ)が為(ため)に身(み)を忘(わす)る。乱脈(らんみやく)を嗣承(ししよう)し韡(さかん)なること正(まさ)に真(しん)に背(そむ)けり。一師(いつし)なるも評(ひよう)を卬(あお)ぎ邪(じや)侈(し)を捨(す)つること淳(あつ)く、遂(つひ)に台聴(だいちよう)に達(たつ)し、漸(やうや)く革新(かくしん)を得(え)たり。永平門下(えいへいもんか)、灯(とう)を主賓(しゆひん)に伝(つた)ふ。幾十睡(いくじゆうすい)万(まん)皆(みな)、其(そ)れに鴨(きん)せらる。噫(ああ)戯(ぎ)なるかな。卍老徳(ろうとく)、道(みち)斬(ざん)にして遠闇(えんあん)至(いた)り振(ふる)ふべし。
大正元年壬(じん)子(し)十月
仁(に)王(おう)山主(ぜんしゆ)遼空(りようくう) (印)

【現代語訳】
寛永十二年(一六三五)に生まれ、仁(思いやり)があり、生まれながら(天性)の不凡な才に恵まれ、幼くして志し高く、国を出て名を道白と改める。備後の国(現・広島県)の人である。字を卍山褐依文春と称した。朝に参り、暮(夜)に入ってもなお願い、互いにやり取りし、切磋琢磨して学んだ。その後、月老(僧の月舟を指す)の弟子となり、苦行に耐え、辛酸をなめた。世間にいう三十歳の時、大発願し(大いに心を発し)し、何度も誓いを新たにして宗弊(宗派の弊害)を取り除き正しく整えようと決意する。この為に我が身をも忘れた。当時派内はばらばらに宗旨を受け継ぎ、多くの乱れが生じて、まさに真に背く状態が続いていた。道白は一師に過ぎなかったが、乱立する派を正し、邪侈(よこしまな考え)を捨てることに意を傾けた。やがて道白の行いは宗門の耳(幹部の耳)に達し、革新の扉を得るに到る。こうして永平寺門下に正しい灯りを点し、多くの門下に伝えることとなる。幾十万もの睡りについていた者達もみなその導きにより恩恵を受けることとなった。ああ、見事なことであるよ。卍老徳の道は斬新であり、遠く闇に眠っていた者達を覚醒したのである。
大正元年壬子(一九一二)十月
仁王山主遼空 (印)

(注)
・提撕命親・・「提撕(ていせい)」はこちらが与えると相手も返すの意で、お互いに助け合うこと。
・卬(ぎょう)・・仰と同意。
・邪侈(じゃし)・・独善的で道に外れること、またよこしまで贅沢なこと。
・淳(じゅん)・・すなお、誠実、またすなおで熱心なこと。
・主賓(しゅひん)・・主人と客の意で、ここでは永平寺に住する者と所々にいる門下僧をいう。
・鴨(きん)・・均と同義。整えること。