頼山陽
Rai Sanyo(Rai Sanyou)

 頼山陽 1
 頼山陽 2
 頼山陽 3
 頼山陽 4
 頼山陽 5
 頼山陽 7 頼山陽 8 頼山陽 7
 頼山陽 5
 頼山陽 8
 頼山陽 8
作家名
頼山陽 らい さんよう
作品名
山水図
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 象牙軸 頼支峯箱 二重箱
本紙寸法48.2×174
全体寸法62.8(胴幅)×219 p
註釈

【原文】
点詩聞君約再過
已看雲変動嵯峨
誰念惜墨如金意
惟恐傷言一筆多
百峰老生イ輓題、事見于子常語中、不改〓也。(以上、牧百峰)
頼師之書、天下争購、贋作十居八九。松浦君威寄此幅、請同社各鑑。予与君威同郷交亦最久、予先鑑之、嫌於阿所好、因属同社先一弁真偽、附一言於後還之。安政戊午嘉平月十五日、宮原龍敬書。(以上、宮原節庵)
山陽翁在日数帰省道、過尾路淹留旬余、常以為例。因乞戯墨者多、松浦君威亦請、作此山水時、将理装而去匆匆忙不及落成。翁約之他日而去其後翁終見背。君威以其無疑為恨、頃使吾輩識其顛末、翁見背已廿九年、古人詩云、白髪暫存如電露、青山長臥有煙霞。益哀人亡而物不変也。今対此山水、亦能得無今昔之感。安政戊午冬十一月、族弟頼綱識。(以上、頼立斎)
同月南至日、観之於高瀬新居。是日雨々気襲壁満幅、蒼然対此、忘身在市井中也。不肖醇僭題。(以上、頼三樹三郎)
峯容葎崒猶復見翁特立不阿之状、対図疎然遂題。韜庵家長惇。(以上、家長韜庵) 峰雲縹渺、精神隠躍、猶観先人也。丙寅冬日、頼復謹識。(以上、頼支峯)

【訓読】
詩を点じて君の再び過ぎるを約するを聞く。
已(すで)に雲の変じて動くこと嵯峨たるを看る。
誰(たれ)か惜墨如金の意を念(おも)はむ。
惟(ただ)恐らくは、傷言の一筆多きことを。
百峰老生題を輓く。事は子の常語の中に見る。不改〓也。(以上、牧百峰)

頼師の書、天下に購を争う。贋作は十に八九あり。松浦君威、この幅を寄せ、同社の各鑑を請う。予と君威とは同郷にして、交りまた最も久し。予、先にこれを鑑し、好むところに阿するを嫌う。因りて同社に属して、先ず一たび真偽を弁じ、一言を後に附してこれを還す。安政戊午(安政五年、1958)嘉平月(12月)十五日、宮原龍敬書。(以上、宮原節庵)

山陽翁、在りし日、数(しばしば)帰省の道すがら、尾路を過ぎり、淹留すること旬余を常に以て例とす。戯墨を乞う者の多きによる。松浦君威亦請う。この山水を作る時、まさに装を理(ととの)えんとして去り、匆忙として落成に及ばず。翁、これを他日に約して去り、その後、翁、終に背(そむ)かる。君威、その疑い無きを以て恨みとし、頃(このごろ)吾輩をしてその顛末を識(しる)さす。翁、背かれて已(すで)に廿九年、古人の詩に云はく、白髪暫(しばら)く存すること電露のごとく、青山に長く臥して煙霞あり。益(ますます)哀れなるは人亡くなりて物変わらざることなり。今、この山水に対して、またよく今昔の感無きをえんや。安政戊午冬十一月、族弟頼綱識。(以上、頼立斎)

同月南至日(冬至の日)、これを高瀬の新居に観る。この日、雨々の気、壁を襲い幅を満たす。蒼然としてこれに対すれば、身の市井の中にあるを忘るなり。不肖醇僭題。(以上、頼三樹三郎)

峯容は葎崒として、なおまた翁の特に立ちて阿せざる状を見る。図に対して疎然として遂に題す。韜庵家長惇。(以上、家長韜庵)

峰雲縹渺、精神隠躍として、なお先人を観るがごときなり。丙寅冬日、頼復謹識。(以上、頼支峯)

【訳文】
詩に点を加えてみると、先生が再び来られると約束されたことがわかった。
すでに雲がかたちを変えて高く低く動くことを見た。
いったい誰が、墨を惜しむこと金のごとしというようなことを考えようか。
ただ心配するのは、余計なことを言って作品に傷をつけることだ。
百峰老生が題を書いた。内容は先生の常の御言葉にあることだ。改めることはしない。
(以上、牧百峰)

頼先生の作品は、天下にもてはやされて求められている。その中でも十に八九は贋作であろう。松浦君威氏がこの幅を見せて、我々の鑑定を求めた。私と君威氏とは同郷の友人で、交際も久しい。私は先ず鑑定だけしておく。他の人と同じことを言うことを嫌うからだ。だから、内容については仲間の意見に任せて、まず真偽のみを述べて、一言付け加えてこれを戻すこととする。安政戊午(安政五年、1958)嘉平月(12月)十五日、宮原龍敬書。(以上、宮原節庵)

山陽先生がご存命のころは、しばしば広島への帰省の道すがら、尾道に立ち寄り、十数日滞在することを常とされていた。作品を求めるものが多かったからである。松浦君威氏もまた求めた。この山水が作られた時、いよいよ表装を整えようとして、先生は立ち去らねばならず、慌ただしさの中で完成できなかった。先生はこれを後日に約して出発し、その後、先生はついに逝去された。君威氏は、これが真筆であるのにそうなってしまったことを残念に思い、このごろ我らにその顛末を記すように求めた。先生が逝かれてもう二十九年になる。昔の人の詩に次のようにある。「白髪の頭でしばらく生きていることは、雷の光りや露のように短くはかないものだ。青山の墓所に長く横たわって煙霞に包まれるばかりだ」と。それにしてもいよいよ哀感を覚えるのは、人が亡くなっても、作品が変わらないことである。今、この山水図に対してみると、今昔の感を覚えずにはいられないのだ。安政戊午冬十一月、族弟頼綱識。(以上、頼立斎)

同月南至日(十一月冬至の日)、この作品を高瀬川沿いの新居で拝見した。この日は一日中雨で、雨の気配が壁を伝わって作品に包んだ。薄暗い室内でこれを見ていると、自分が市中にいることを忘れてしまっていた。不肖醇僭題。(以上、頼三樹三郎)

山のかたちは、草木や岩に覆われており、先生が従来の作品の二番煎じをしなかったことがわかる。作品を見てあらあら感想を述べた。韜庵家長惇。(以上、家長韜庵)

峰に漂う雲は縹渺(ひょうびょう)とほのかに広がり、精神はいきいきと躍動して、まるで先生の人となりを見るかのようである。丙寅(慶応二年、一八六六年)冬日、頼復謹識。(以上、頼支峯)

牧百峯
享和元年(1801) 〜 文久3年(1863)

美濃国本巣郡文殊(岐阜県本巣市)。名、輗(げい)。字、信侯、また信矦、信吾。通称、善助、また善輔。別号、百峰山人、戇斎(とうさい)。頼山陽の門弟。学習所(後の学習院)の儒師を務める。著書に『戇斎漫稿』など。

宮原節庵
文化3年(1806)〜明治18年(1885)

備後尾道(広島県尾道市)の人。名、龍。字、士淵、季泉。別号、節菴、潜叟、易安、栗村など。頼山陽の門弟。山陽没後、江戸へ出て昌平黌(江戸幕府直轄の教学機関)に学ぶ。天保12年(1841)、京都に戻って学塾を開く。著書に、『節庵遺稿』など。

頼立斎
享和3年(1803)〜文久3年(1863)

安芸国(広島県)に生まれる。名、綱。字、士常。頼山陽の甥(一説に頼春水の甥)。京都の人富小路姉小路北に住した。儒者、篆刻家。

頼三樹三郎
文政8年(1825)〜安政6年(1859)

京都三本木に生まれ。頼山陽の三男。名、醇。通称、三木八。号、鴨崖、百城、古狂生。山陽没後、山陽の弟子児玉旗山に学び、旗山の没後、後藤松陰、篠崎小竹に学ぶ。天保11年(1844)、昌平黌に入学。徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を倒し昌平黌を退学。弘化3年(1846)、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、探検家の松浦武四郎と出会う。梁川星厳、梅田雲浜ら尊皇攘夷派らとの連携を強め国事に奔走。安政6年(1859)、安政の大獄により処刑。

頼支峯
文政6年(1823)〜明治22年(1889)

京都に生まれる。頼山陽の次男。名、復。字、剛、又二郎。牧百峰、後藤松陰に学び、江戸へ出て、門田朴斎、関藤藤陰の庇護を受けながら昌平黌に学ぶ。東京遷都に際し天皇に随行。昌平学校教授、大学少博士を務める。『日本外史』の標注本を作った。

※旧蔵者でこれらの賛を依頼した杉浦君威については、尾道の人である以外、未詳。