正岡子規
Masaoka Shiki

正岡子規 1
正岡子規 2
正岡子規 3
正岡子規 4
作家名
正岡子規 まさおか しき
作品名
正岡子規 古白遺稿
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法(上)31.5×21cm
本紙寸法(下)33.7×21cm
全体寸法59×168.5cm
註釈

藤野古白
明治4年(1871)〜明治28年(1895)

俳人・藤野古白 ― 子規の四歳下の従兄弟。
子規は古白を評し、「古白の身を譬えばゝ火燄を包みたる氷の如し。氷に觸るゝ者誰か中に火燄の燃えつゝあるを知らん。」(古白遺稿・藤野潔の傳)、或いは、「彼は自ら狂なりといふ、然り狂なり。」(同)と言う。明治28年3月3日、正岡子規は、日清戦争を従軍記者として視察するため東京を発つ。戦況はすでに決し、下関では講和会議が開かれようとしている。「どうかして従軍しなけれは男に甲斐がない」(我が病)、「孤剣飄然去って山海關の激戦を見ん」(古白遺稿・藤野潔の傳)と、子規もまた、戦勝気分に湧く国民的昂揚のなかにいた。子規が東京を発つその前夜、古白は子規の身支度を手伝っている。その時の様子を子規は、「擧動快活なり」(同)と記す。同年4月7日、古白は、「現世に生存のインテレストを喪うに畢りぬ」(同)と遺書に記し、自ら銃弾を頭部に放つ。

(以下、古白年譜、『古白遺稿』藤野潔の傳より)

明治四年八月八日 伊豫國浮穴郡久萬町に生る。通稱を久萬夫といふ。父は漸、母は十重(大原氏)、藤野氏は世々松山の藩士なり。治農掛を以て一家久萬町に在る時生る。生まれて一月ならず一家松山に歸る。

同十年(六歳) 一家讃岐國高松に移る。
同十一年(七歳) 母を喪ふ。幾何ならずして一家松山に歸る。
同十三年(九歳) 一家東京に移る。
同十六年(十二歳) 赤阪丹後町の須田塾に入る。後小石川の同人社少年塾に入る。
同二十年(十六歳) 夏期休暇中向島に居る。富士山に登る。後横濱に寓すること少時。商業に志あり。
同二十二年(十八歳) 秋の初~經病に罹り、巣鴨病院に入る。病稍癒ゆ。十二月松山に遊び病を養ふ。
同二十三年(十九歳) 自ら古白と號す。後湖泊堂、壺伯等の字を書することあり。
同二十四年(二十歳) 四月東京に歸る。秋俳句大に進む。
同二十五年(二十一歳) 東京専門學校に入り文學を修む。獨り南豊島郡戸塚村高田馬場の跡に寓居す。 十二月一家松山に歸る。留まつて學ぶ。
同二十六年(二十二歳) 夏期休暇中松山に歸る。上京途次尾張國知多郡洞雲院を訪ふ。僧に請ふて髪を削り。如意を携へて上京す。
同二十七年(二十三歳) 春、小説「椿説舟底枕」を草す。夏期休暇に先たつて松山に歸る。蓋し卒業論文として審美論を草せんとすれとも論據を捕へ得す、郷里に歸りて志を果さんと欲するなり。終に論文を得す。脚本「築島由來」の稿を携へて上京す。十一月松山を發し途に周防國大野に無得を訪ふ。
同二十八年(二十四歳)「築島由來」を早稻田文學に載す。四月七日帝国大學第一醫院に入院し同月十二日に歿す。骨を松山西安寺の母の墓の側に葬る。