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学びのこころ(アーカイブ)掲載作品

C-077 正岡子規
Masaoka Shiki (Masaoka Siki)

正岡子規 1
正岡子規 2
正岡子規 3
正岡子規 4
作家名
C-077 正岡子規
まさおか しき
作品名
『古白遺稿』草稿
価格
展覧会出品中
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法(上)31.5×21cm
本紙寸法(下)33.7×21cm
全体寸法59×168.5cm
作家略歴

正岡子規
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藤野古白
明治4年(1871)〜明治28年(1895)

俳人・藤野古白 ― 子規の四歳下の従兄弟。
子規は古白を評し、「古白の身を譬えばゝ火燄を包みたる氷の如し。氷に觸るゝ者誰か中に火燄の燃えつゝあるを知らん。」(古白遺稿・藤野潔の傳)、或いは、「彼は自ら狂なりといふ、然り狂なり。」(同)と言う。明治28年3月3日、正岡子規は、日清戦争を従軍記者として視察するため東京を発つ。戦況はすでに決し、下関では講和会議が開かれようとしている。「どうかして従軍しなけれは男に甲斐がない」(我が病)、「孤剣飄然去って山海關の激戦を見ん」(古白遺稿・藤野潔の傳)と、子規もまた、戦勝気分に湧く国民的昂揚のなかにいた。子規が東京を発つその前夜、古白は子規の身支度を手伝っている。その時の様子を子規は、「擧動快活なり」(同)と記す。同年4月7日、古白は、「現世に生存のインテレストを喪うに畢りぬ」(同)と遺書に記し、自ら銃弾を頭部に放つ。

(以下、古白年譜、『古白遺稿』藤野潔の傳より)

明治四年八月八日 伊豫國浮穴郡久萬町に生る。通稱を久萬夫といふ。父は漸、母は十重(大原氏)、藤野氏は世々松山の藩士なり。治農掛を以て一家久萬町に在る時生る。生まれて一月ならず一家松山に歸る。

同十年(六歳) 一家讃岐國高松に移る。
同十一年(七歳) 母を喪ふ。幾何ならずして一家松山に歸る。
同十三年(九歳) 一家東京に移る。
同十六年(十二歳) 赤阪丹後町の須田塾に入る。後小石川の同人社少年塾に入る。
同二十年(十六歳) 夏期休暇中向島に居る。富士山に登る。後横濱に寓すること少時。商業に志あり。
同二十二年(十八歳) 秋の初~經病に罹り、巣鴨病院に入る。病稍癒ゆ。十二月松山に遊び病を養ふ。
同二十三年(十九歳) 自ら古白と號す。後湖泊堂、壺伯等の字を書することあり。
同二十四年(二十歳) 四月東京に歸る。秋俳句大に進む。
同二十五年(二十一歳) 東京専門學校に入り文學を修む。獨り南豊島郡戸塚村高田馬場の跡に寓居す。 十二月一家松山に歸る。留まつて學ぶ。
同二十六年(二十二歳) 夏期休暇中松山に歸る。上京途次尾張國知多郡洞雲院を訪ふ。僧に請ふて髪を削り。如意を携へて上京す。
同二十七年(二十三歳) 春、小説「椿説舟底枕」を草す。夏期休暇に先たつて松山に歸る。蓋し卒業論文として審美論を草せんとすれとも論據を捕へ得す、郷里に歸りて志を果さんと欲するなり。終に論文を得す。脚本「築島由來」の稿を携へて上京す。十一月松山を發し途に周防國大野に無得を訪ふ。
同二十八年(二十四歳)「築島由來」を早稻田文學に載す。四月七日帝国大學第一醫院に入院し同月十二日に歿す。骨を松山西安寺の母の墓の側に葬る。

コンディション他

稻妻   吉野にて

稻妻や天の一方に花の山
梅龕を悼む
稻妻のとゞかずなりぬ苔の下
明月やわが妻載せて渡守
明月に鏡磨ぐなり京の町
明月や花見衣裳の物すごさ
明月や鶯の啼く山あらん
蘆のかげに何雲動く湖の月
月更けぬ山をめぐって歸る人
月白し洞雲院の屋根瓦
月出でゝ暗くなりたる雲間かな
乞食を葬る月の光かな
唐崎の松の月夜は雨青し
竹藪の上三尺を渡る月

古城趾観月

落城の雲を出でたり今日の月

剃髪して

髪剃りて留守頼まれつ寺の月

石山より瑞書本日受取り候清遊羨しさ
限りなし吾もいつかと思ひ立候
といふていつくもるやら秋の月

(以上、上段草稿、刊本と同じ)

月消えて浦わの霜や立煙

大阪にて

鉄柵の霜や夜明の電氣燈

雪に鳴く鴉の聲は黒いもの

白鷺雪を離れて浮ぶ渚かな

御車を大路に立てゝ夜の雪

古杉に道ある雪の峠かな

川黒うして舟に聲あり夜の月

江の雪や人の聲するとまり舟

手探りに香爐を擁す夜の雪

山門の鐵網に入る霰かな

松の葉をこぼれて落つる霰かな

星消えて闇の底より霰かな

驚破霰啼く聲やみにけり

馬を入れて袴たゝめば霰かな

冬月

松原や闇の上行く冬の月

池氷る山陰白し冬の月

寒月や高い窓ある庫裏の闇

冬の月淋しがられて冴えにけり

枯野

枯野原風のとだえに星が飛ぶ

夜々は霜に星ふる枯野かな

鹽賣のから荷は寒き枯野かな

煙突の煙に暮るゝ枯野かな

冬川

大阪にて

冬川や燈火樓臺一萬家

月消えて浦わの霜や立煙

大阪にて

鉄柵の霜や夜明の電氣燈

雪に鳴く鴉の聲は黒いもの

白鷺雪を離れて浮ぶ渚かな

御車を大路に立てゝ夜の雪

手探りに香爐を擁す夜の雪

川黒うして舟に聲あり夜の月

江の雪や人の聲するとまり舟

古杉に道ある雪の峠かな

山門の鐵網に入る霰かな

松の葉をこぼれて落つる霰かな

星消えて闇の底より霰かな

馬を入れて袴たゝめば霰かな

驚破霰啼く聲やみにけり

冬月

松原や闇の上行く冬の月

池氷る山陰白し冬の月

冬の月淋しがられて冴えにけり

寒月や高い窓ある庫裏の闇

枯野

枯野原風のとだえに星が飛ぶ

夜々は霜に星ふる枯野かな

煙突の煙に暮るゝ枯野かな

鹽賣のから荷は寒き枯野かな

冬川

大阪にて

冬川や燈火樓臺一萬家

(以上、下段草稿、刊本と相違あり、左/草稿、右/刊本)

子規が最初に古白危篤の報に接するのは、広島宇品を出港する前日の明治28年(1895)4月9日である。子規はその時の気持ちを、「孤剣飄然去って山海關の激戦を見んとする余の意氣込みは未だ余をして泣かしむるに至らざりき。」(古白遺稿・藤野潔の傳)と記し、同年4月24日、金州滞在中に東京の河東碧梧桐からの手紙で古白の訃報を知らされた時は、「只仕方無し思ひたるのみ。」(同)と記している。それから、約2年後の明治30年(1897)5月28日、子規は病をおして、独力で『古白遺稿』を編纂出版するのである。同年3月1日、高濱清(虚子)宛書簡に次のようにある。

拝啓御病人如何御座候や

こゝに一つ御報道申度儀あり そは古白遺稿畧〃編集し終りたりといふことなり 昨年來小生の心頭にかゝりて雲の如くくもりしものは今や全く晴れぬ 數日前より俳句の選擇にかゝり候處一日半にてそれはすみ傳をものせんと存じて取りかゝり候處意外の辛苦にてこれにも一日半餘を費やしたり(原稿二十八枚)やりかけたらほうつておけぬ小生の性質故今夜傳を書きあげて快に堪へず 尤も此二三日來多少發熱あり殊に今夜は八度六分迄上り居候へども責任をはたさんとする心熱は體熱に打勝ちて重荷の下りたるやうに覺え候 原稿は一端島村にまはして其後國許へ送る積なり 其節は貴兄に御ョみ申度事澤山有之候 右御報迄 匆々

三月一日

虚子兄

萬一藤野に御面會のこともあらば一言御申傳被下度候 一昨年の明夜は古白が小生片づけてくれし夜なり

子規は、明治28年(1895)5月17日、従軍の帰途、佐渡国丸の船中で大喀血を起こし、同月23日、神戸港に上陸して直ぐに県立神戸病院に担ぎ込まれる。子規の病状は重篤で、一週間生死の境を彷徨った。その後病状は一進一退を繰り返すも、脊椎カリエスによる激痛に苦しみ、病床に臥す日が多くなる。以下は、『仰臥漫録』にある明治34年(1901)10月13日の日記である。

十月十三日 大雨恐ろしく降る 午後晴れ

今日も飯はうまくない 昼飯を過ぎて午後二時頃天気は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は黙つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が変になって来た 「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める いよいよ例の如くなるか知らんと思ふと益(ますます)乱れ心地になりかけたから「たまらんたまらんどうしやうどうしやう」と連呼すると母は「しかたがない」と静かな言葉、どうしてもたまらんので電話をかけうと思ふて見ても電話をかける処なし 遂に四方太あてて電信を出す事とした 母は次の間から頼信紙を持って来られ硯箱もよせられた 直に「キテクレネギシ」と書いて渡すと母はそれを畳んでおいて羽織を着られた 「風呂に行くのを見合わせたらよかつた」といひながら銭を出して来て「車屋に頼んでこう」といはれたから「なに同じ事だ 向へまで往つておいでなさい 五十歩百歩だ」といふた心の中はわれながら少し恐ろしかつた「それでも車屋の方が近いから早いだろう」といはれたから「それでも車屋ぢや分らんと困るから」と半ば無意識にいふた余の言葉を聞き棄てにして出ていかれた さあ静かになつた この家には余一人となつたのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起つて来た 実は電信文を書くときにはやちらとしてゐたのだ しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間へ行けば剃刀があることは分つて居る その剃刀さへあれば咽喉を掻く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐ふことも出来ぬ 已むなくんばこの小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい 錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直に死ぬるであらかうと色々に考へて見るが実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ 死は恐ろしくはないのであるが苦が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい そればかりではない やはり刃物を見ると底の方から恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする 今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よほど手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいととの二つが戦つて居る 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した その内母は帰つて来られた 大変早かつたのは車屋まで往かれたきりなのであろう 逆上するから目があけられぬ 目があけられぬから新聞が読めぬ 新聞が読めぬからただ考へる ただ考へるから死の近きを知る 死の近きを知るからそれまでに楽しみをして見たくなる楽しみをして見たくなるから突飛な御馳走も食ふて見たくなる 突飛な御馳走も食ふて見たくなるから雑用がほしくなる 雑用がほしくなるから書物でも売らうかといふことになる……………いやいや書物は売りたくない さうなると困る 困るといよいよ逆上する

(岩波文庫)

そして、その次のページに、「古白曰來」(古白いわく来たれ)と記し、錐と千枚通しの絵を添えるのである。

藤野古白

前回のこの項(学びのこころ)は、乃木希典であった。私は、日本人にとって近代とは何かと問えば、その一つは、国家国民としてのアイデンティティーを自覚し、国家国民としてその誇りを獲得することであると思う。そして、その最初の契機が日清戦争の勝利であり、その前後を境に、日本の近代国家体制が確立されるのである。乃木希典は近代国家日本の黎明期を生き抜いた日本国民としての理想像であった。また、芸術家も、宗教家も、近代国家日本のなかで、自らの使命を見いだして生きた。漱石しかり、鴎外しかり、内村鑑三しかり、山崎弁栄しかり。子規とて、志しなかばとはいえ、俳句の革新を成し遂げ、日本文化に寄与せんとした。しかし、一方で、藤野古白は、日本が近代国家へと大転換しようとするその真っ只中で、「現世に生存のインテレストを喪うに畢りぬ」と告白し、24歳の自ら命を絶つのである。子規は古白の文学を、その『古白遺稿・藤野潔の傳』で次のように評している。「其草稿を取つて熟讀するに及んで歌俳小説盡く疵瑕多くして残すに足らず」、「余の贔負目より見るも文學者として傳ふるに足らざるなり。」と。しかし、そうであろうか、子規は同じ『古白遺稿・藤野潔の傳』のなかで、「二十七年の頃より彼は却つて月並調を學びて些細の穿ちなどを好むに至り」とする一方で、「二十四年の秋、俳句句合數十句を作る。趣向も句法も新しく且つ趣味の深きこと當時に在りては破天荒ともいふべく余等儕輩を驚かせり。《今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな》《芭蕉破れて先住の發句秋の風》《秋海棠朽木の露に咲きにけり》の如きは此時の句にして、此等の句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白に凌駕せられたる余等はこゝに始めて夢の醒めたるが如く漸く俳句の精神を窺ふを得たりき。」と、古白の才能を「明治俳句界の啓明」とまで評しているのである。

吾は狂を自覺する狂なり ―

今、私たちは、子規の残した『古白遺稿』によって、藤野古白という、一個の文学者が放つ「魂」の光芒に触れることができる。

『古白遺稿』は正岡子規によって編纂され、明治30年5月28日に発行された。これは、その正岡子規自筆草稿の内二枚である。

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