F-121 岡本太郎
Okamoto Tarou

 岡本太郎 1
 岡本太郎 2
 岡本太郎 3
 岡本太郎 4
作家名
F-121 岡本太郎 おかもと たろう
作品名
未来を拓く像
価格
650,000円
作品詳細
額装 白銅製
作品直径26.1㎝
作品高2.5㎝
額寸法50×59.3㎝
作家略歴

岡本太郎
明治44年(1911)~平成8年(1996)

神奈川県橘樹郡高津村(川崎市高津区二子)に漫画家岡本一平、文学者岡本かの子の長男として生まれる。大正6年(1917)6歳、青山の青南小学校に入学するが、1学期で退学。日本橋通旅籠町の私塾日新学校、小伝馬町の十思小学校と転校を繰り返す。大正7年(1918)7歳、慶應義塾幼稚舎に入学、寄宿舎に入る。昭和4年(1929)18歳、慶應義塾普通部を卒業。東京美術学校西洋画科に入学。同年12月父一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し、母かの子と共に神戸港を出港。昭和7年(1932)21歳、パリ大学文学部哲学科でヴィクトル・バシュのヘーゲル美学の講義を聴講する。昭和8年(1933)22歳、アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)協会に参加、協会主催の展覧会に出品する。昭和10年(1935)24歳、ジュンヌ・ユーロップ画廊でクルト・セリグマン、ジェラール・ヴュリアミとグループ展を開催。セリグマンと「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱する。昭和11年(1936)25歳、グラン・ゾーギュスタン街にある屋根裏部屋で行われた「コントル・アタック」の最初の集会にマックス・エルンスト、パトリック・ワルドベルグとともに参加。ジョルジュ・バタイユのの演説に感銘を受ける。サロン・デ・シュランデンパンダン展に《傷ましき腕》を出品。昭和12年(1937)26歳、G.L.M.社より初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クルチオン序文)が刊行。パリ万博跡地にミュゼ・ド・ロム(人類博物館)が開館。パリ大学の学生として同館で行われていた民族学の父マルセル・モース教授の授業に学ぶ。昭和14年1939(28歳)、岡本かの子没。昭和15年(1940)29歳、帰国。昭和16年(1941)30歳、第28回二科会に滞欧作品《傷ましき腕》《コントルポアン》など4点を出品し、二科賞を受賞する。昭和17年(1942)31歳、中国戦線に出征。昭和20年(1945)、青山の自宅にあった全ての作品を焼失する。昭和21年(1946)35歳、復員。昭和22年(1947)36歳、二科会会員に推挙。32回二科展に《夜》《憂愁》を出品。昭和23年(1948)37歳、花田清輝らと「夜の会」を結成、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが参加する。また、「アヴァンギャルド芸術研究会」を花田清輝とともに結成。池田龍雄、勅使河原宏、山口勝弘、福島秀子、北代省三、瀬木慎一、平野敏子らが参加する。岡本一平没。昭和24年(1949)38歳、第34回二科展に《重工業》を出品。昭和25年(1950)39歳、第35回二科展に《森の掟》を出品。昭和26年(1951)40歳、東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。昭和28年(1953)42歳、『青春ピカソ』(新潮社)を刊行。昭和36年(1961)50歳、『忘れられた日本<沖縄文化論>』(中央公論社)を出版。11月、毎日出版文化賞を受賞。昭和45年(1970)59歳、大阪万国博のモニュメント《太陽の塔》完成。昭和54年(1979)68歳、『岡本太郎著作集』(全9巻、講談社)を刊行。昭和56年(1981)70歳、岡本太郎展(山梨県立美術館)を開催。昭和63年(1988)77歳、ぎふ中部未来博にシンボルモニュメント《未来を拓く》を制作。平成7年(1995)84歳、岡本太郎展(大阪・髙島屋、広島市現代美術館を巡回)を開催。平成8年(1996)、急性呼吸不全にて死去。

(岡本太郎記念館年表より作成)

コンディション他

作品は、制作元の説明では、ぎふ中部未来博の記念メダル制作の際、岡本太郎が制作した石膏原型より鋳型を作り、2個のみ制作されたもの。その際、鋳型は壊し、石膏原型は岡本太郎に返却された。

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