田中智学 Tanaka Chigaku

文久元年(1861)〜昭和14年(1939)

江戸日本橋本石町に生まれる。本名、巴之助。幼名、秀丸。別号、巴雷、鐘宇など。田中家は、代々、美濃国日置江村茶屋新田(現在は岐阜市茶屋新田)で庄屋を勤める旧家であった。祖父田中意驍ヘ、庄屋を勤めながらも、岐阜に出て医業を始める。父玄龍は、25歳の時、江戸へ出て医者となり、大垣戸田藩江戸藩邸で待医も勤める。また、熱心な法華信者であった。

明治3年(1870)10歳、東京一之江(現在の江戸川区一之江)の日蓮宗妙覚寺智境院日進の元で得度。智学の名を授かる。明治4年(1871)11歳、下総国飯高村(千葉県八日市場市)の飯高檀林に入る。明治8年(1875)15歳、飯高檀林が廃絶になり東京に戻り、日蓮宗大教院に入学。明治9年(1876)16歳、大病を患う。明治10年(1877)17歳、日蓮宗大教院を退学する。明治12年(1879)19歳、還俗。明治14年(1881)21歳、横浜に蓮華会設立。明治17年(1884)24歳、立正安国会の活動を始める。明治19年(1886)26歳、日本橋蛎殻町に本部「立正閣」を創建。明治20年(1887)27歳、『仏教夫婦論』刊行。明治22年(1889)29歳、『仏教僧侶肉妻論』執筆。明治23年(1890)30歳、内閣修史局長官重野安繹による日蓮の滝口法難の事蹟を否定した論考に対し、それを論駁した『滝口法難論』を講演、刊行する。明治30年(1897)37歳、月刊誌『妙宗』創刊、日蓮教学の体系化をはかる。明治34年(1901)41歳、「本化摂折論」の講演を行う。『宗門の維新』発表。高山樗牛、同書に強く共鳴する。明治35年(1902)42歳、立正安国会の教義大綱となる「本化妙宗式目」完成。明治42年(1909)49歳、『日蓮主義』創刊。明治43年(1910)50歳、『日蓮聖人の教義』刊行。明治44年(1911)51歳、「日本国体学」提唱。明治45年(1912)、『国柱新聞』創刊。大正3年(1914)54歳、「国柱会」創立。大正7年(1918)58歳、東京鶯谷に国柱会館落成。大正9年(1920)60歳、日刊『天業民報』創刊。大正10年(1921)61歳、「国民劇研究会」創立。宮沢賢治、国柱会入会。昭和4年(1929)69歳、『大国聖日蓮上人』刊行。昭和14年(1939)79歳、11月17日、死去。

(主に『田中智學先生略傳 / 師子王文庫』より作成)

田中智学 掩八紘為家
掩八紘為家

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