出口なお Deguchi Nao

天保8年(1837)〜大正7年(1918)

丹波国福知山(現在の京都府福知山市)の大工、桐村五郎三郎の子として生まれる。桐村家は代々、苗字帯刀を許された藩の御抱え大工であったが、父五郎三郎の放蕩により、出生時には、家業は没落し、幼少より貧困の生活を送る。弘化4年(1847)10歳のとき、父五郎三郎が病死し、生活はさらに困窮し、奉公に出る。身を粉にして働き、病身の母を気づかう姿は、孝行娘としての評判となり、嘉永2年(1849年)12歳のとき、福知山藩主から「三孝女」の一人として表彰される。安政元年(1854)17歳のとき、綾部に住む叔母の出口ゆり(母そよの妹)に望まれて養女となる。安政2年(1855)19歳のとき、大工の四方豊助と結婚。夫豊助は、婿養子となり、出口政五郎を名のる。夫政五郎は腕の良い名大工であったが、浪費家で、なおは、饅頭売りや糸引き、クズ買いなどの仕事をして生活を支え、三男五女の八人の子供を育てる。明治20年(1887)51歳のとき、政五郎、亡くなる。明治25年(1892)1月30日(旧正月元旦)夜、神霊の世界にいざなわれ、神々に会う霊夢を見る。明治25年(1892年)2月3日、激しい神がかりが起こり、『この神は三千世界を立替え立直す神じゃぞよ。三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ。とどめに艮の金神が現われて三千世界の大洗濯を致し、一つに丸めて万劫末代続く神国に致すぞよ』と、その第一声を発する。明治26年(1893)、綾部でたびたび原因不明の火事が起こる。なおの神がかりは、『よき目ざましもあるぞよ。また悪しき目ざましもあるから、世界のことを見て改心いたされよ。いまのうちに改心いたさねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ』と声をあげ、なおは、放火犯を疑われ留置される。真犯人が見つかり、釈放されるも、なおの神がかりは続き、なおは、長女よね(米)の夫である大槻鹿造によって強引に、座敷牢に40日間監禁される。入牢中になおは、神に『大声で叫ぶのはもうやめてほしい』と懇願すると、『そなたが書くのではない、神が書かすのである』という神の命により、神がかりは「文字」となり、落ちていた古釘で、牢の柱に文字を刻むようになる。この神の言葉を「筆先」(ふでさき)といい、その数は、81歳で亡くなるまでの27年間で、半紙約1万巻20万枚にも達した。この「筆先」は後に、出口王仁三郎によって『大本神諭(全7巻)』(大正6年)として纏められ、『霊界物語』と並び、「大本」の根本教典となる。最初の神がかりののち、なおのまわりには、その不思議な霊力を頼って人が集まるようになる。明治27年(1894)59歳、金光教に所属して最初の集会場を開く。明治30年(1897)62歳、金光教から独立した広前(神を祀る布教所)を開き、「艮の金神」を祭る。明治31年(1898年)63歳、初めて上田喜三郎(後の出口王仁三郎)と対面する。明治32年(1899)、上田喜三郎によって「金明霊学会」設立。喜三郎は会長、なおは教主となり、後の大本の原型ができる。明治33年(1900)、なおの五女澄子(すみこ)、喜三郎と結婚する。このころより、教団の運営は喜三郎が中心となり、なおは、質素な農村の生活のなかで、神事や啓示の執筆に専念する。明治41年(1908)、金明霊学会を「大日本修斎会」に改組。明治43年(1910)、上田喜三郎は、出口家の養子となり、出口王仁三郎に改名。大正5年(1916)、大日本修斎会を「皇道大本」に改称。同年、家島諸島神島(上島)で、艮の金神の妻神である坤(ひつじさる)の金神の神霊を、綾部の大本に迎える「神島開き」という神事を行う。その際、なおに、『みろく様の霊はみな神島へ落ちておられて、未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ…』という神示(筆先)が出る。当時教団では、なおには「艮の金神」という男の神様がかかり、王仁三郎にはその妻神である「坤(ひつじさる)の金神」という女の神様がかかっているとした。なおは、王仁三郎にかかる神霊は自分より低い、悪神の系統だとしていたが、この神示(筆先)により、「坤の金神」、「素盞嗚尊」、「小松林の霊」はすべて、みろく様の系統であり、それが自身にかかる国常立尊よりも尊貴な、天の神様であるということを知る。これを教団では、「見真実」(けんしんじつ)に入ったといい、これによって、なおへの神託は、王仁三郎への神託と同一のものであり、教団内における、王仁三郎の教祖としての地位がかたまる契機となる。

大正7年(1918)11月6日、81歳で死去。

出口なお うしとらのこんじん
うしとらのこんじん

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