天田愚庵 Amada Guan

安政元年(1854)〜明治37年(1854)

陸奥国磐城平藩士の子として生まれる。幼名、久五郎のち五郎、鉄眉とも称す。慶応4年(1868)、15歳の時、戊辰戦争で平城が落城、父母妹と生き別れになり、その後の人生は肉親捜しの漂泊の旅でもあった。明治4年(1871)、神田駿河台のニコライ神学校に入学するが、神を信じないという理由で退学。翌明治5年(1872)、政府正院大書記の職にあった小池詳敬の門人となり、そこで国学者の落合直亮や山岡鉄舟の知遇を得る。明治7年(1874)、長崎滞在中、江藤新平の「佐賀の乱」により一時投獄される。獄中で万葉歌人丸山作楽と出遭い、短歌と国学を学ぶ。同年、旧薩摩藩士鮫島高朗を知り、その紹介により桐野利秋のもとに身を寄せる。明治14(1881)年、山岡鉄舟の紹介により清水次郎長の養子となる。明治17年(1884)、博徒狩りで次郎長が収檻されると、助命嘆願書として『東海遊侠伝』を著して出版。同年、突然養子縁組を解消する。明治20年(1887)年、禅僧となる。明治25年(1892)、京都清水坂に庵を構え、愚庵と号す。明治27年(1894)、維新で亡くなった人々を弔い『巡礼日記』を著す。

天田愚庵 五言排律
五言排律

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