慈雲尊者 Jiun sonjya

享保3年(1718)〜文化元年(1805)

大坂中之島(現、大阪市北区)の高松藩蔵屋敷に上月安範の第七男として生まれる。幼名満次郎、のちに平次郎と改める。1730年(享保15)父の遺命により出家し、摂津の法楽寺(大阪市東住吉区)の住職・忍網貞紀に密教と梵語(サンスクリット)を学ぶ。真言の四度加行に際し宗教的霊感を得、仏道修行に精進する。1733年(享保18)、忍綱の命で京都に遊学し、伊藤東涯に古学派の儒学、詩文を学ぶ。翌年には奈良にて、顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、河内の野中寺(羽曳野市)で秀厳の教えを受けて、戒律の研究を始め、1738年(元文3年)、具足戒を受け、慈雲忍瑞と記される。翌年、忍網は法楽寺住職を退き、後を継を継ぐよう命じた。忍網より灌頂を受け、この年より慈雲飲光と称する。2年後に住職を同門に譲り、信濃に曹洞宗の僧侶の大梅をに参禅する。1744年(延享元年)、忍網の命に随い、河内の高井田長栄寺(東大阪市)を再興して住職となる。翌年正法律復興を唱え、高井田寺を僧坊とする。1749年(寛延2)、「根本僧制」をかかげ、正法律の基礎の確立を目指す。1752年(宝暦2)「方眼図儀」を刊行。1758年(宝暦8)、慈眼菴智鏡禅尼施主となり、生駒山中腹に自ら設計した雙龍庵を結び、「南海寄帰伝」を注釈する。1766年(明和3)、正法律運動よりの撤退を声明し、千衣裁製はじまる。また、梵字の研究に没頭し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を1770年(明和7)にほぼ完成させた。翌年には京都の有志が阿弥陀寺を買い求め上洛を懇請し、その請に応えて移り住む。 1773年(安永2)、桃園帝の中宮、恭礼門院らに十善戒を授け、法話を講ずる。1775年(安永4)、『十善法語』を著すると、1776年(安永5)に阿弥陀寺を閉じ、河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。1781年(天明元年)十善法語十二巻を集約して「人となる道」初編第一巻を作る。1786年(天明6)高貴寺の僧坊が認可され一派真言律宗の総本山、高貴寺正法律本山となる。1788年(天明8)京都大火(天明の大火)があり、御所が炎上する。大火に感じて「夢のさとし」一巻を著し、日本紀神代巻を閲読し、「無題抄」を著した。これより神道研究がすすむ。1792年(寛政4)「梵本心経」一巻、「伝戒記」一巻、「人となる道」第三巻神道を著す。1795年(寛政8)かねてより両部神道を研究し、この頃より雲伝神道を提唱するようになる。翌年には阿弥陀寺に於いて両部曼荼羅を講じ、「両部曼荼羅随聞記広本」6巻を著す。1803年(享和3)、「理趣経講義」三巻を著し、漢梵の復元を試みる。1804年(文化元年)、高井田長栄寺に於いて病に罹り、養生のため上京し、阿弥陀寺に移ると小康を得、金剛経を講ずる。12月22日、講義準備中に遷化。24日夜半には弟子等で阿弥陀寺から大和郡山を経て高貴寺に到着し、奥之院大師堂の側に埋葬された。

慈雲尊者 法々何曾法
慈雲尊者 法々何曾法
慈雲尊者 玉潾墨竹図
墨竹図
慈雲尊者 臨済云無位真人
臨済云無位真人

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