大石順教 Oishi Junkyou

明治21年(1888)〜昭和43年(1968)

大阪道頓堀に生まれる。本名よね。明治32年(1899)11歳、山村流の名取りとなる。明治34年(1901)13歳、大阪堀江で芸妓への道を目指し、「山梅楼」の中川万次郎の養女となり、西川流舞踊を習う。芸名は妻吉。明治38年(1905)6月21日17歳、養父中川万次郎が、妻の駆け落ちから狂乱し、妻の母親、弟、妹、養女二人の5人を刀で惨殺、よねは、両腕を切断され、顔に切り傷を受ける。(堀江六人切り事件) 明治40年(1907)19歳、桂文団治の旅巡業一座に加わる。巡業中のある日、カナリアがくちばしでヒナにえさを与える姿を見て、口で筆をとることを思いつき、独学で書画の勉強に励むようになる。明治43年(1910)22歳、芸人を辞め、大阪生玉持明院の藤村叡運に師事し国文学を学ぶ。明治45年(1912)24歳、日本画家山口草平と結婚し、二児をもうける。昭和2年(1927)39歳、山口草平と離婚。二児を連れて上京、帯地に更紗絵を描き生計を立てる。昭和5年(1930)42歳、駸々堂書店より妻吉自叙伝『堀江物語』刊行。昭和8年(1933)45歳、高野山金剛峰寺に入り得度、順教と改名する。昭和11年(1936)48歳、京都市山科の真言宗山階派勧修寺の塔頭として仏光院を再興建立し住職となる。身障者の相談所「自在会」を設立する。昭和12年(1937)49歳、ヘレンケラーと会見する。昭和13年(1938)50歳、陸運省の要請により、慰問使として中国中部、北部、東部の各地軍病院および駐屯各部隊を慰問。昭和22年(1947)59歳、自在会を改め宗教法人仏光院を創設する。昭和30年(1955)67歳、口を使って書く「般若心経」が日展書道部に入選。昭和37年(1962)、世界身体障害者芸術家協会会員となる。昭和41年(1966)77歳、ドイツのミュンヘン美術館で個展を開催。昭和43年(1968)79歳、『無手の法悦』刊行。多くの書画を残すとともに、事件の犠牲者の追善と、身体障害者の救済に生涯をささげた。

大石順教 柳に蛙
柳に蛙
大石順教 桜

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