岡田茂吉 Okada Mokichi

明治15年(1882)~昭和30年(1955)

「世界救世(メシヤ)教」の創始者。宗教家。

東京市浅草区橋場(東京都台東区橋場)に古道具商の父喜三郎、母登里の二男として生まれる。生家は店が三畳位、居間が四畳半位の二間きりで、幼少時代の生活は赤貧洗うが如であったという。明治22年(1889)7歳、日新尋常小学校入学。明治24年(1891)9歳、浅草尋常小学校に転校。明治25年(1892)10歳、父から二人の老人の話を聞かされる。一人は、表具屋で贋物の絵をつくる名人であったが、後に盲目になった話し。もう一人は、父親の骨董仲間の老人が、金策に困った住職に本尊を抵当に金を貸す。住職は金を工面し、本尊を返してくれるように再び老人を訪ねるが、本尊はとうに外国人に売り払っていた。進退窮まった住職は老人を恨みつつ、その軒先で首をくくる。老人はその後盲目になり、一人息子は資産を飲みつぶしてしまったという。茂吉は父からこの二人の老人の話を聞き、その罪の報いと人間の運命に鮮烈な印象を受ける。明治29年(1896)14歳、浅草尋常小学校を卒業。病弱であったが成績は優秀であった。明治30年(1897)15歳、東京美術学校予備ノ課程に入学するが、半年後に眼疾を患い退学する。この頃より結核を患う。明治32年(1899)17歳、日本橋浪花町に転居。父喜三郎、古物商を開く。明治33年(1900)18歳、肺結核三期となり不治の宣告を受けるが菜食療法により全快する。またこの頃より家運安定し、将来父と二人で書画骨董店を開きたいと考える。明治37年(1904)22歳、ベルグソンの「直観の哲学」、ウイリアム・ジェームスの「プラグマチズム」等西洋哲学書を多く読む。東京神田で黒岩涙香の講演を聞き深い感銘を受ける。明治38年(1905)23歳、父喜三郎死去。小間物小売商「光琳堂」開業。明治40年(1907)25歳、装身具商「岡田商店」開業。相原タカ(19歳)と結婚。五浦に岡倉天心訪ねる。この頃から約10年間、胃腸、痔、頭痛、リューマチ、神経衰弱、腸カタル、心臓弁膜症、腸チフス等、多くの病気に苦しむ。明治41年(1908)26歳、妻タカ、結核を患うが菜食療法にて完治。明治42年(1909)27歳、三越呉服店の児童博覧会にかんざしを出展、銅賞を受賞する。大正3年(1914)32歳、三越呉服店と取引始まる。大正4年(1915)33歳、「ワリダイヤ」(後の旭ダイヤ)の名称で、日本を含む10ヶ国で特許を取得。この頃薬の毒性を深く覚えるようになる。妻タカ、女子を出産するが、生後間もなく女子死去。大正8年(1919)37歳、商売が順調に成長し、運転手付きの外車に乗るが、取引先の「倉庫銀行」が倒産し、その影響で破産する。妻タカ、女子を未熟児で出産、女子、妻タカとも死去する。太田よ志と再婚。事業の再建に着手し、矢継ぎ早に実用新案の申請を出す。大正9年(1920)38歳。「岡田商店」を株式会社にする。「大本」入信。長女通子生まれる。大正10年(1921)39歳、長男至麿生まれる。「大本」の「お筆先」の研究に意を注ぐ。大正12年(1923)41歳、再興しつつあった事業が、関東大震災により再び大打撃を受ける(東京が火の海になるという異変の予感がしきりにし、その予感的中により、見えざる神秘の世界の確かな手応えを感じる)。長男至麿死去。次男三穂麿生まれる。大正13年(1924)42歳、観音を見るという体験によって観世音菩薩との因縁を自覚し、人は神仏の加護を受けることと、霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかないことを覚り、また道徳を説くに当たっても霊の実存を認識させなければ無益の説法でしかないことを知る。大正14年(1925)43歳、次女三弥子生まれる。この頃、寝食を忘れ神霊研究に没頭する。大正15年(1926)44歳、神の啓示を受け、仏典に対する素養をふまえ、揺るぎない自覚と透徹した智慧の裏付けをみずから「見真実」と呼び、人類の過去の過ちを看破し、未来のあるべき正しい姿を私的しうる霊的な境地に到達する。腹中に宿る「火の玉」を自覚する。昭和2年(1927)45歳、三女斎生まれる。今までの書物を中心とした探求から具体的な霊的救済法の実践へ向かい、「鎮魂帰神法」に没頭。奇跡的な病気治癒者が相次ぐ。昭和3年(1928)46歳、「岡田商店」の実務から手を引き、神業に専念することを決意する。昭和4年(1929)47歳、「大本」東京本部の常任委員となる。昭和6年(1931)49歳、千葉県鋸山山頂にて、日の出と共に霊界における「夜昼転換」を感得、真文明創造者の自覚を深める。昭和7年(1932)50歳、四男六合大生まれる。昭和9年(1934)52歳、岡田式神霊指圧療法の名で、信仰的治療所「応神堂」を開業。大本教の方針と異なるとの批判を受け「大本」を離れる。昭和10年(1935)53歳、地上天国建設を目的として「大日本観音会」を発会、立教を宣言し、麹町山元町に本部を置く。東京都世田谷区上野毛に邸宅を購入し、「大日本観音会」の総本部として麹町より移転。玉川郷(後に宝山荘)と命名し、同地にて栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。昭和11年(1936)54歳、官憲の圧迫により、宗教行為と治療行為の分離を迫られ「大日本健康協会」創立する。警視庁より療術行為禁止命令を受け「大日本観音会」解散する。玉川警察署に医療妨害の容疑で留置される。「観音百幅会」を発足させ、彩色の観音像描く。昭和12年(1937)55歳、治療禁止令解除。「岡田式指圧療法」の活動再開。この頃鉱山経営に力を入れる。昭和15年(1940)58歳、奇蹟の治療術として隆盛を極め、入信者が相次ぐ。医療法違反容疑で玉川警察署に留置。治療廃業し弟子の養成に力を入れる。揮毫した観音画、「お守り」の書などが弟子たちに下付され、それが各地に伝わる。「お守り」を「治病観音力」から「光明」に改める。昭和19年(1944)62歳、箱根の強羅へ転居(神山荘)。美術品の収集始まる。観音画や書の希望者が急増する。昭和21年(1946)64歳、箱根神仙郷に「観山亭」完成。昭和22年(1947)65歳、宗教法人「日本観音教団」発足。昭和23年(1948)66歳、無肥料栽培の論文を発表。昭和24年(1949)67歳、宗教法人「日本五六七教」発足。昭和25年(1950)68歳、「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」を発足させる。贈賄容疑で教団施設が家宅捜査され、逮捕、拘置される。「神人合一」(神は岡田茂吉を自由自在に動かし、岡田茂吉の思うままに行うことが即ち神の意志であり、神の経綸となっていく。)の自覚得る。「散花結実」の書を一千組み書き信者に下付する。昭和27年(1952)70歳、箱根美術館完成。昭和28年(1953)71歳、尾形光琳の紅白梅図(国宝)入手。昭和30年(1955)73歳、野々村仁清の色絵藤花図茶壺(国宝)を入手。2月10日、熱海市「碧雲荘」にて死去。

昭和32年(1957)、岡田茂吉の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として、熱海美術館が開設され、これは後に「救世熱海美術館」、さらに現在の「MOA美術館」となる。

岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 真善美
真善美
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 光明如来
光明如来
岡田茂吉 光明如来
光明如来
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 神龍
神龍
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 光明
光明
岡田茂吉 座御遊行観音
座御遊行観音
岡田茂吉 大浄光
大浄光
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 健富和
健富和
岡田茂吉 地上天国
地上天国
岡田茂吉 観音菩薩図
観音菩薩図
岡田茂吉 神人之力
神人之力
岡田茂吉 五六七
五六七
岡田茂吉 地上天国
地上天国
岡田茂吉 光明如来
光明如来
岡田茂吉 真心
真心
岡田茂吉 散花結実
散花結実
岡田茂吉 光明
光明
岡田茂吉 地上天国
地上天国
岡田茂吉 大浄光
大浄光
岡田茂吉 真善美
真善美
岡田茂吉 霊光遍満
霊光遍満
岡田茂吉 五六七聖代
五六七聖代
岡田茂吉 神道
神道
岡田茂吉 救世済民
救世済民
岡田茂吉 光明如来
光明如来
岡田茂吉 神人之力
神人之力
岡田茂吉 天恩
天恩
岡田茂吉 神光
神光
岡田茂吉 観音光
観音光
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 散花結実
散花結実
岡田茂吉 大光明如来
大光明如来
岡田茂吉 光明如来
光明如来
岡田茂吉 地上天国
地上天国
岡田茂吉 散花結実
散花結実
岡田茂吉 散花結実
散花結実
岡田茂吉 大光明如来像(出世)
大光明如来像(出世)
岡田茂吉 実相界
実相界
岡田茂吉 光明
光明

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