ホーム Web書画ミュージアム 歴史人物汪兆銘(汪精衛)、徐良、楮民誼、周佛海、蔡元培、李守信、李徳全、松井石根、阿部信行、坂西利八郎、本庄繁 南京国民政府関係要人

汪兆銘(汪精衛)、徐良、楮民誼、周佛海、蔡元培、李守信、李徳全、松井石根、阿部信行、坂西利八郎、本庄繁 南京国民政府関係要人

汪兆銘(汪精衛)
1883年(清光緒9、明治16)〜1944年(民国33、昭和19)

広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。1904年、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(法政大学の前身)に留学。1905年、孫文の指導する中国革命同盟に参加。1910年、醇親王の暗殺を計画し、清朝政府に逮捕される。1911年、大赦により釈放。1912年、中華民国成立宣言文を起草。1912年、袁世凱と対立し、フランスへ亡命。1917年、袁世凱政府が崩壊し、帰国。孫文の下で、広東軍政府の最高顧問を務める。孫文の死後、。国民党左派の中心人物として国民政府常務委員会主席、軍事委員会主席を兼任。1926年、蒋介石と対立し、フランスに亡命。1927年、帰国し、中央常務委員、組織部長に復帰。1932年、蒋介石の南京国民政府に参加、同政府の行政院長、党副総裁、鉄道部長を務める。1935年、狙撃されるが、一名を取りとめる。1937年、日中戦争が勃発し、対日政策をめぐり徹底抗戦を貫く蒋介石と対立。1938年、重慶を経てハノイに脱出。国民党から永久除名される。1940年、日本側の支持を得て、南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立。1944年、狙撃の際に受けた傷が悪化、日本に渡り、名古屋帝国大学医学部附属病院で治療を受けるが死去する。

徐良
1893年(清光緒19、明治26)〜1951年(民国40、昭和26)

広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。日本に留学して横浜大同学校(孫文、梁啓超らの呼びかけで設立され、以降、清朝改革派の国外拠点となった。現在は横浜山手中華学校。)に入学。次いで、アメリカに留学。1940年、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府(汪兆銘政権)に参加。外交部政務次長、中央政治委員会外交専門委員会主任委員を兼任。日本との国交交渉で代表を務める。汪兆銘政権崩壊後、蒋介石の国民政府に逮捕され、死刑判決を受けた後、一旦釈放されるが、天津市人民政府により処刑される。

楮民誼
1884年(清光緒10、明治17)〜1946年(民国35、昭和21)

清浙江省湖州府(現在の呉興区)に生まれる。1903年、日本へ留学し、日本大学で政治経済学を学ぶ。1906年、同郷の張静江とともにフランスへ向かう途中のシンガポールで、中国同盟会に加入。フランス滞在中、呉敬恒(呉稚暉)、李石曽、蔡元培らとともに中国印書局を創設し、『新世紀月刊』『世界画報』などを発行。1911年、辛亥革命により革命派が掌握した上海に戻る。この時、黄興の紹介により、汪兆銘、陳璧君夫婦と知り合う。1912年、同盟会本部駐上海機関部の総務長に就任するが、宋教仁が国民党に改組すると、これに失望してベルギーに留学し、ブリュッセル自由大学に学ぶ。1915年、フランスで蔡元培・汪兆銘らと中国人留学生の支援組織「華法教育会」を設立する。この頃、無政府主義に傾倒。1920年、呉敬恒、李石曽らとリヨン中法大学を創設。同年、ストラスブール大学で医学を学ぶ。1924年、医学博士号を取得。同年末帰国し、孫文率いる中国国民党で教育工作に従事、広東大学教授、同代理校長、広東医学院院長を歴任する。1926年、国民党第2回全国代表大会で中央候補執行委員に選出。汪兆銘の腹心として党政活動に参加。1932年、汪兆銘とともに蒋介石の南京国民政府に参加し、行政院秘書長に就任。1935年、汪兆銘が銃撃負傷すると、上海の中法国立工学院院長に転出する。1940年、南京国民政府(汪兆銘政権)の成立すると、行政院副院長兼外交部部長に就任。以後、日本との外交折衝を主に担当する。同年、駐日大使となる。後に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与。1946年、蒋介石の国民政府に逮捕され、漢奸の罪により、蘇州の監獄で処刑される。

周佛海
1897年(清光緒23、明治30)〜1948年(民国37、昭和23年)

清湖南省辰州府沅陵県に生まれる。本名、周福海。日本に留学し鹿児島の第七高等学校造士館 (官立旧制高等学校、略称は「七高」)、京都帝国大学に学ぶ。この頃から中国共産党と接触を持つ。1921年、中国共産党の設立会議、中共一大会議に滞日留学生を代表して参加。党副委員長に指名される。1924年、中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。その後、北伐に参加し、一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は蒋介石に従い、国民党中央執行委員、党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年、汪兆銘が、蒋介石と対立し重慶を脱出すると、これに従い、汪兆銘政権に参加する。戦後、漢奸として逮捕され、1946年、死刑の判決を受けるが、特赦により、無期徒刑に減刑。1948年、南京で収監中に獄死する。

蔡培
1884年(清光緒10、明治17)〜1960年(民国49、昭和35)

清江蘇省常州府無錫県に生まれる。日本に留学し、早稲田大学法科を卒業。帰国後、国民政府交通部秘書、交通部航政司司長、内政部民政司司長を務める。1940年、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、国民政府の工商部政務次長、糧食管理委員会委員長、行政院政務委員、南京特別市市長を歴任する。1943年、駐日大使となった。1946年、日本漢奸として逮捕され、中日親善を推進したなどの罪により死刑判決を受け、上海提藍橋監獄に収監される。翌1947年、最高法院で無期懲役に減刑。1956年、病気治療のため入院。1960年、病没する。

李守信
1892年(清光緒18、明治25)〜1970年(民国59、昭和45)

清内蒙古卓索図盟土黙特右旗(現在のモンゴル自治区フフホト)に生まれる。1919年、から熱河省の直隷派の軍に加入、軍功を重ねて順調に昇進する。1928年、国民政府の東北軍騎兵第17旅第34団団長に就任。1930年、ガーダー・メイリン(嘎達梅林)の蜂起を鎮圧。1936年、デムチュクドンロブ(徳王)が蒙古軍総司令部副総司令兼軍務部長に就任。同年、蒙古軍政府が成立すると、参謀部長に任命され、日本の援助を受け、蒙古軍を拡充する。1937年、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立。蒙古軍総司令に昇進する。1938年、蒙古聯盟自治政府副主席に就任。1940年、蒙古聯合自治政府代表として、南京国民政府代表の周仏海と会談。南京国民政府を正統の中央政府と承認する一方で、蒙古聯合自治政府の自治権を認めさせる。1941年、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に当選する。日本敗戦後、蒋介石と結び、第10路軍総司令に就任。1949年、国民政府の敗色が濃厚になると、一時台湾へ逃亡、その後、デムチュクドンロブの誘いを受け内モンゴルに入り、蒙古自治政府が成立すると、政務委員兼保安委員会副委員長に就任するが、モンゴル人民共和国に逃亡する。1950年、デムチュクドンロブとともに、中華人民共和国に引き渡され収監された。1964年、特赦後、内蒙古自治区文史館館員を務めた。1970年、フフホト市で病没する

李徳全
1896年(清光緒22、明治29)‐1972年(民国61、昭和47)

河北省に生まれる。牧師の娘に生まれる。夫は西北軍閥の頭領でクリスチャン・ゼネラルと呼ばれた馮玉祥。抗日戦争委中は重慶で婦女慰労総会を指導。1949年、中華人民共和国成立とともに民主人士として国務院衛生部長(衛生相)に就任。中国紅十字会会長を兼任する。1953年からの残留日本人3万人の帰国事業に尽力。1954年、1957年の2回来日した。中国人民政治協商会議副主席を務める。

松井石根
明治11年(1878)〜 昭和23年(1948)

愛知県名古屋市牧野村に生まれる。明治34年(1901)、陸軍大学校に入学。明治37年(1904)、大学在学中に日露戦争に従軍。明治39年(1906)、陸軍大学校を首席で卒業。参謀本部への配属となり、フランスへと派遣される。明治40年(1907)、フランスから帰国し、自ら志願して清国に赴任。孫文と深く親交し、孫文の大アジア主義に強く共鳴。辛亥革命を支援し、袁世凱打倒に協力する。大正12年(1923)、陸軍少将に昇進。昭和8年(1933)、設立発起人として、近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁らと、大亜細亜協会を設立。昭和8年(1933)、陸軍大将。昭和10年(1935)、予備役編入。昭和12年、招集され上海派遣軍司令官として中国に派遣され、南京攻略戦を指揮。昭和13年(1938)、陸軍中枢より中国寄りと見られ、更迭され帰国する。、昭和15年(1940)、日中戦争における日中双方の犠牲者を追善するため、熱海市伊豆山に興亜観音を建立、自らは麓に庵を結ぶ。昭和17年(1942)、大亜細亜協会会頭として、中国、台湾東南アジア各地を訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説き、南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談した。戦後、極東国際軍事裁判において起訴され、司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。1948年12月9日、巣鴨拘置所において処刑される。

阿部信行
明治8年(1875)〜昭和28年(1953)

石川県金沢市に生まれる。第四高等学校を中退し、陸軍士官学校に入学。明治30年(1897)、陸軍士官学校卒業。昭和5年(1930)、第4師団長。昭和8年(1933)、陸軍大将。昭和11年(1936)、予備役編入。昭和14年(1939)、内閣総理大臣に就任。第二次世界大戦への不介入方針を掲げるが、陸軍の指示を失い、翌昭和15年、内閣総理大臣を辞任。内閣総辞職する。以後、汪兆銘政権への特派全権大使、翼賛政治会総裁を歴任。昭和19年(1944)、最後の朝鮮総督に就任する。戦後は、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判開廷直前になって突如不起訴となる。

坂西利八郎
明治3年(1871)〜昭和25年(1950)

和歌山県に生まれる。明治24年(1891)、陸軍士官学校卒業。日清戦争に出征。明治33年(1900)、陸軍大学校を優等で卒業。明治35年(1902)、清国に派遣され、袁世凱顧問となり、明治41年(1908)まで、北京に駐在した。明治44年(1911)、辛亥革命に伴いふたたび中国に赴任、昭和2年(1927)までの約17年間北京に滞在し、黎元洪大総統顧問、中国政府顧問などを務め、日本軍きっての「支那通」として知られた。

本庄繁
明治9年(1876)〜昭和20年(1945)

兵庫県篠山市真南条に生まれる。明治30年(1897)、陸軍士官学校卒業。明治37年(1904)、福知山第二十連隊の中隊長として日露戦争に出征。明治40年(1907)、陸軍大学校卒業。明治41年(1908)、参謀本部員の資格で北京、上海に駐在。大正7年(1918)、大佐に昇進し参謀本部支那課長となる。大正10年(1921)、参謀本部附で張作霖軍事顧問に就任。昭和6年(1931)、関東軍司令官に就任。満州事変を指揮する。昭和8年(1933)、侍従武官長に就任。昭和11年(1936)、予備役編入。昭和20年(1945)11月、陸軍大学校内で割腹自決。

汪兆銘(汪精衛)、徐良、楮民誼、周佛海、蔡元培、李守信、李徳全、松井石根、阿部信行、坂西利八郎、本庄繁 南京国民政府関係要人 南京国民政府関係要人揮毫帖
南京国民政府関係要人揮毫帖

画像をクリックしてください