田中大秀 tanaka oohide

安永6年(1777)〜弘化3年(1847)

飛騨高山一之町の薬種商田中弥兵衛の二男に生まれる。初名、紀文。のちに大秀、八月麿。字、寿豊。通称、弥次郎。別号、千種園、賞月?、湯津香木園(ゆつかつらぞの)、荏野翁(えなのおきな)。幼年より古学への関心深く、21歳で熱田神宮の神職栗田知周に和歌を学び、享和元年(1801)本居宣長に二ヶ月学ぶ。文政元年(1818)、飛騨荏名神社を再興、野荏文庫を創設する。文政3年(1820)平安時代に造営され中世以降荒廃していた飛騨総社を再興する。弘化3年(1846)越前(福井県)に招かれ、宣長から受けた万葉集講釈(鈴屋万葉講説)に自説を交えて講釈する。 著書に「竹取物語」「土佐日記解」「蜻蛉紀行解」「養老美泉弁註」「落窪物語解」「飛騨総社考」「荏野冊子」「荏野集」自撰歌集など。本居宣長の国学を受け継ぎ、飛騨一円に国学を広め、国学の発展に重要な足跡を残す。また、「清貧の歌人」として知られる橘曙覧は大秀の門人の一人。

田中大秀 田中大秀
富士図和歌
田中大秀
和歌 長歌

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