夏目漱石 Natsume Souseki

慶応3年(1867)〜大正5年(1916)

慶応3年(1867)2月9日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町1番地)に生まれる。父夏目小兵衛(直克)(当時51歳)、母ちゑ(当時42歳)。父小兵衛は、下横町、来迎寺門前など11ヵ町および高田馬場を支配した名主。母ちゑは、質商(鍵屋)の娘で、品格があり和歌を詠んだという。本名金之助。兄弟姉妹は上に7人(内二人は小兵衛の先妻ことの子)いた。生後まもなく四谷の古道具屋(一説には戸塚源兵衛村の八百屋)へ里子に出されるが、直ぐに戻された。

明治元年(1868)11月、内藤新宿北裏町(現・新宿区新宿2丁目)の門前名主塩原昌之助の養子となり、同家に引き取られる。(1歳)

明治7年(1874年)、養父塩原昌之助の不貞により、養母塩原やすとともに一時実家に戻り、まもなく塩原やすとその実家または付近の借家または借間に移り住む。12月、第八番公立小学戸田学校下等小学校第八級に1年遅れて入学。この頃、養母塩原やすは塩原昌之助との離婚を決意し、塩原家の長男である金之助は、養父塩原昌之助のもとに戻る。(7歳)

明治8年(1875)4月、養父母離婚。同年末か翌年初め頃(推定)、塩原の籍のまま実家に引き取られる(8歳)。同年6月頃、市ケ谷学校下等小学第三級に転校か。明治11年(1878)4月、市ケ谷学校上等小学第八級を修了。5月頃、錦華学校尋常科第二級後期に転学。10月、同科を優等で修了、一級の前期と後期を飛び級する。

※実家に移った理由は、養父昌之助が給仕にすると聞いたからである。養父塩原昌之助はいざという時には、引き取り役立てようとしていたし、実父夏目直克は、厄介者が戻って来たという感じを抱く。(『道草』九十一による推定)

明治12年(1879)3月、東京府第一中学校正則科第七級乙に入学。明治14年(1881)1月、母ちゑ死去。前年、または同年春までに、東京府第一中学校中退。4月(推定)、漢学塾二松学舍第三級一課に入学、漢文学を学び、唐宗の詩文、特に陶淵明を好む(14歳)。7月(推定)同科修了。11月、同学第三科修了。

明治15年(1882)、春頃まで、二松学舍に在学する。

明治16年(1883)7月頃(推定)、大学予備門受験準備のため、神田駿河台の成立学舎(校長・杉浦重剛)に入学。英語を学ぶ。(16歳)

明治17年(1884)9月、東京大学予備門予科に入学。神田猿楽町の末富屋に下宿し通学する。同級に柴野(中村)是公、芳賀矢一、福原鐐二郎、正木直彦、橋本左五郎などがいた。

明治19年(1886)7月、腹膜炎に罹り、第一高等中学校予科第二級から一級への進級試験受けられず、平常の成績も悪く追試験を受けるも留年する。9月(推定)、自活を決意し、柴野(中村)是公と共に、江東義塾(本所区松坂町・現墨田区両国)に寄宿し、同塾の教師をする。

明治20年(1887)、1月末、第一高等中学校予科第二級(英)二之組首席になる(第一高等中学校卒業まで首席を通す)。3月、長兄大助(大一)肺結核で死去。6月、次兄直則肺結核で死去。

明治21年(1888年)1月、夏目姓に復帰。7月、第一高等中学校卒業。9月、第一高等中学校本科第一部(文科)に進学、英文学を専攻する。

※初め、建築科を望み、二部(工科)のフランス語を学ぼうと志すが、級友米山保三郎(禅号・天然居士)の「建築より文学に生命あり」の言葉に触発され、英文学専攻を決意した。米山保三郎は、後に空間論を研究、明治30年5月29日、留学直前に病死する。漱石は「文科大学あつてより文科大学閉づるまでまたとあるまじき大怪物」と米山保三郎を評した。

明治22年(1889)1月(推定)、正岡子規との親交始まる。5月、子規の「七草集」九編の七言絶句の批評に初めて「漱石」と署名する。九月、紀行漢詩文集「木屑録」を脱稿。(22歳)

※「木屑録」は、他人に見せるために書いた最初の文章。表紙に「漱石頑夫」と記す。後に松山で静養中の子規に示し、子規より文才を深く認められる。

明治23年(1890)7月、第一高等中学校第一部本科卒業。9月、帝国大学文科大学英文科入学。直ちに文部省貸費生となる。

明治24年(1891)12月、教授J・M・ディクソンの依頼で「方丈記」を英訳、その解説を書く。

明治25年(1892)4月、大学生の徴兵猶予(26歳まで)の関係で、北海道後志国岩内郡吹上町17番地浅岡仁三郎方に移籍し北海道平民になる。5月、大西祝の推薦で、東京専門学校(現早稲田大学)講師となる。(明治28年3月まで)6月、「老子の哲学」執筆。7月、夏期休暇中、松山に帰る子規と共に、初めて関西旅行に向かう。8月、松山の子規宅で、初めて高浜虚子に会う。10月、「哲学雑誌」の「雑報」欄に無署名で、ウォルト・ホイットマンに関する論文を発表する。

明治26年(1893)1月、帝国大学文科大学英文学談話会(同人に北村透谷、島崎藤村、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木、上田敏など)で「英国詩人の天地山川に対する観念」と題し講演を行い、3月から6月まで「哲学雑誌」に連載し世評を得る。7月、帝国大学文科大学英文科卒業、帝国大学大学院入学。10月、帝国大学学長外山正一の推薦により、高等師範学校英語講師となる。(26歳)

明治27年(1894)2月 、血痰により肺結核を疑う。(その後結核菌は出ず)8月(推定)、松島に赴く。松島瑞巌寺で南天棒老師の「一棒」を喫しようかと思うが断念する。12月23日から翌年1月7日まで、菅虎雄の紹介で、鎌倉円覚寺に釈宗活を訪ね、塔頭帰源院の正統院に入り、釈宗活の手引きで、釈宗演の提撕(指導)を受ける。

※明治27年から28年にかけて、神経衰弱の病状著しく、幻想や妄想におそわれる。漱石は生涯に渡り、神経衰弱(神経症)と胃病に悩まされる。

明治28年(1895)4月、高等師範学校と東京専門学校を辞して、愛媛県尋常中学嘱託教員(松山中学)に赴任する。 6月、子規へ送る句稿や書簡の署名に「愚陀仏」の号を用いる。9月、「海南新聞」に「鐘つけば銀杏ちるゝ建長寺」他一句掲載される。(新聞に掲載された最初の句)この頃より、句作をさかんに行い、俳壇に知られるようになる。12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。

明治29年(1896)4月、愛媛県尋常中学を辞し、熊本の第五高等学校講師に赴任する。6月、中根鏡子と挙式。

明治30年(1897)3月、英文学の奇書、「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見、ローレンス・スターン(1713 − 1768)」を「トリストラム、シャンデー」として「江湖文学」に紹介。6月、実父直克死去。8月、樋口一葉の全集を買い、「たけくらべ」など最も感心し、男でもこれだけ書けるものはいないという。

明治32年(1899)5月、長女筆子生まれる。

明治33年(1900)9月、文部省第一回給費留学生として満二ヶ年の英国留学に出発。(33歳)

※妹の梅子が大いに激励するつもりで、ある時ロンドンの夏目のところに手紙を書いて、兄さん、ぜひ博士になって、えらくなっておかえりください、それをお待ちしていますとかなんとか書いてやったものとみえまして、やがて程へてからの手紙に、梅子が博士になってお帰りなさい、それを待っていますといってきたが、おれは博士なんかにはけっしてならない。博士だからえらいなんて思うのはたいへんなまちがいだ。博士なんてものは、やっていることはいくらか知っているでもあろうが、そのほかのことはいっさい知りませんというのははなはだ不名誉千万な肩書きだ。だから人はどう言おうと、おまえはおれの女房なんだから、そんなくだらない博士の夢なんぞみてはいけないし、そんなものだからえらいんだなどと誤解してはいけない。おれは生涯どんなことがあっても、そんな称号はけっしてもらわないつもりだ、とこんな口調で言って来たものです。(漱石の思い出)

明治35年(1902)9月、強度の神経衰弱に悩む。

明治36年(1903)1月、帰国。4月、第一高等学校英語嘱託及び東京帝国大学文科大学講師となる。同大で、「英文学概説」(4月〜明治38年6月)、「サライス・マナー」(4月〜6月)「マクベス」(9月〜翌2月)を講じる。6月、神経衰弱悪化。

明治37年(1904)4月、明治大学講師を兼任。神経衰弱、春頃から夏にかけて小康を得るが、翌年なかば頃まで一進一退続く。同大で、「リア王」(2月〜11月)、「ハムレット」(12月〜翌6月)を講じる。

明治38年(1905)1月、「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に、「倫敦塔」を「帝国大学」に発表。文名あがる。10月、「吾輩は猫である」上編出版(大倉書店)。同大で、「十八世紀英文学」(6月〜)を講じる。(38歳)

※9月、高浜虚子宛の手紙に「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作」と漏らす。

明治39年(1906)4月、島崎藤村の「破戒」に感銘を受ける。4月、「坊ちゃん」をホトトギスに発表。7月、「吾輩は猫である」脱稿し全編完結する。同月、「草枕」起稿。8月、「草枕」を「新小説」に発表。10月、明治大学に辞表提出。11月、「吾輩は猫である」中編出版(大倉書店)。12月「野分」(題未定)脱稿。

明治40年(1907)4月、一切の教職を辞して朝日新聞社に入社する。6月、西園寺公望首相文士招待会の招待を断る。同月、「吾輩は猫である」下編出版(大倉書店)。6月23日〜10月28日まで、朝日新聞に「虞美人草」を連載。

※この「虞美人草」を書きかけている最中、総理大臣の西園寺さんが、有名な文士を招じて、一夕の雅宴を開くという例の雨声会の招待が夏目のところにも参りました。こんなことはめんどうくさいほうの夏目は、すぐにはがきにお断わりの句を書きました。それは、《時鳥厠半ばに出かねたり》というのですが、ちょうどそれを書いているところに、私の妹婿の鈴木が参りまして、それを見て、相手は西園寺候ではあり、はがきとはあんまりひどいじゃないかとかなんとか言っておりましたが、本人はいっこう平気なもので、ナーニこれで用が足りるんだからたくさんだよとかなんとか申して、それを投函してしまいました。(漱石の思い出)

明治41年(1908)1月、「虞美人草」出版(春陽堂)。1月1日から4月6日まで、朝日新聞に「抗夫」を連載。3月、森田草平、平塚らいてうの心中未遂事件(煤煙事件)起こる。事件後、草平の面倒をみ、小説「煤煙」の執筆を勧め、春陽堂からの出版、東京朝日新聞に連載の斡旋をする。6月13日〜21日まで「文鳥」を大阪朝日新聞に連載。7月25日(東京は26日)〜8月5日「夢十夜」を東京大阪両朝日新聞に連載。9月1日〜12月29日まで「三四郎」を朝日新聞に連載。(41歳)

明治42年(1909)5月、「三四郎」出版(春陽堂)。6月27日〜10月14日まで「それから」を東京大阪両朝日新聞に連載。8月20日、烈しい胃カタルを起こす。9月〜10月、満鉄総裁中村是公の招きで、満韓各地を旅行。10月21日(大阪は22日)〜12月30日(大阪は29日)まで「満韓ところどころ」を東京大阪両朝日新聞に連載。11月25日、東京朝日新聞に朝日文芸欄が創設され、主宰を任される。

明治43年(1910)1月、「それから」出版(春陽堂)。3月1日〜6月12日まで「門」を 東京大阪両朝日新聞に連載。6月18日〜7月31日まで、胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院する。8月6日、転地療養のため修善寺温泉に赴く。8月24日、大喀血起こす。(修善寺の大患)10月11日に帰京し、長与胃腸病院に入院する。10月29日〜翌年2月20日まで「思い出す事など」を 東京大阪両朝日新聞に連載。

明治44年(1911)1月、「門」出版(春陽堂)。2月22日、文学博士の学位記を文部省に返送する。2月26日、長与胃腸病院退院。6月17日〜28日、婦人を同伴し長野に講演旅行。高田、直江津、諏訪を経て帰京。8月11日、朝日新聞社主催の講演のため関西へ発つ。8月19日、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。9月14日、帰京。9月16日、神田錦町の佐藤診療所で痔疾を手術。10月29日、五女ひな子急死。(44歳)

※以下は、「漱石の思い出」に記載された、博士号辞退門問題につての漱石未発表原稿である。

学位授与の問題がだいぶやかましくなっている。学位を与えようとした人々の量見が 好意に出たのであるとうことはもちろんのことである。
とはいえ世間が一般に名誉と思うものであるからというて、推薦した人々の了見が好意に出たのであるというわけで、受けないほうが無理だと論ずるのはあまりに単純である。 親切は押し売りすべきものでない。押し売りすればすでに親切ということはできない。 学位を与えるのは命令であるとか、与えられた者はこれを受けるべき義務があるとかいうのは俗論である。屁理屈である。
学位を与えるのは名誉のためだというならば無理に与えねばならぬ理由はあるまい。官職さえも強制せぬのである。名誉を強制する理屈はとうてい発見することができぬのである。」
与えるといったら喜んで受けるだろうと思ったのは、思った人の誤りである。いわゆる己をもって人を量ったものである。手前の手落ちのために人に迷惑をかける理由はあるまい。
学位に頓着しないで独り自ら高うする者があるというのは、邦家のためにむしろ祝すべきではあるまいか。 与えようとした初めの親切心に立ち戻り、受けたくないというならば、潔く先の決定を取り消せばそれで済むのである。あまり窮屈に考えるから物事がめんどうになるのである。実につまらぬ問題と自分は考える。

明治45年・大正元年(1912)、1月1日〜4月29日まで「彼岸過迄」を東京朝日新聞に連載。8月17日〜31日まで、中村是公と塩原に旅行する。9月15日、「彼岸過迄」出版(春陽堂)。9月26日、佐藤診療所に痔疾で入院。10月2日退院。12月6日より「行人」東京大阪両朝日新聞に連載始まる。

大正2年(1913)、1月頃から強度の神経衰弱起こる。6月まで続く。2月26日、「行人」の「帰ってから」第一回掲載。3月28日「帰ってから」休載。3月下旬、胃潰瘍再発、5月末まで自宅で病床に臥す。9月18日、「行人」の「塵労」再び連載始まる。11月、津田清楓と親しく交わり、南画、水彩画に熱中する。この頃、近代と名のつく全てのものへの嫌悪が激しくなり、「悠然見南山」の境地への憧憬つのる。

大正3年(1914)1月、「行人」出版(大倉書店)。4月20日〜8月11日まで「こころ」の「先生の遺書」、東京大阪両朝日新聞に連載。6月2日、北海道より転籍し、東京府平民に戻る。9月、胃潰瘍再発。約一ヶ月病床に臥す。9月20日、「こころ」出版(岩波書店)。11月25日、学習院輔仁会で「私の個人主義」と題し講演。この頃から翌年にかけて良寛の書に傾倒、さかんに蒐集に努める。

※良寛のことが出ましたから、少し夏目の書画のことをお話しいたしましょう。もともと書画を観ることは好きなようでしたが、このころからよく散歩に出ては、書画屋や古道具屋などをのぞいて、何かと安物をあさって参りました。ほんのお小遣いで買ってくるので、贋物であろうとそんなことはいっこうお構いなしで、自分が観て絵がおもしろければそれでいいというふうで、ぼろぼろのきたないものを買ってきてはかけて見て楽しんで、そうしていいと思ったものは、表具屋へやって表装をしかえて、自分で箱書きをしておりました。もちろんお金というお金を出さないのですから、たいしたもののあろうはずはありませんが、ともかくこんなふうにして自分では楽しんでおりました。
いったい謡をうなるぐらいでほかに何という道楽のある人ではなし、まあまあ本を読むくらいが道楽で、一時は随分本も買いましたが、だんだんその本も買わなくなって、まったく自分に使うお小遣いというもののいらない人でした。ずいぶんつつましい倹約なところもあったかわりには、またお金には至極恬淡でのんきなものでございまた。お小遣いなども、物を書き出していますといっこういらないのですが、それでも私がころを見計らって紙入れの中にいくらかずつ入れておきます。それがいくら入っているのか知らない様子で、月によってはちっともへらないことがあります。それでも時々入れておいてやりますと、それが二か月三か月の間には少しまとまった額になります。と、そこへ誰かがやって来て泣きついてそのお金を借りていくとか、自分で好きな書画骨董を買いに行くとか、そんなことでございました。今でもこうして自分で買ったり、また人様からいただいたりした書画骨董(といっても美術倶楽部あたりにでるような金目のものは一つもないでしょうが)が、そっくりそのまま残っております。ずいぶんガラクタもあるようですが、ともかく自分の趣味でつつましく集めたのがおもしろいと思います。
良寛をしきりと習いまして、あんな細い字を書いたりしたことは、これからしばらく後のことでしたと思いますが、このころからしきりに人様から何か書いてくれるようにと頼まれます。自分でも嫌いじゃないので書き書きしていたようですが、書いているうちにはおもしろくなってしきりと手習いもしていたようです。
良寛のほかに好きで集めた物に、といって三,四点ぐらいずつのものですが、それに伊予の明月上人と蔵沢とがございます。二つとも松山出身の森円月さんがもってこられて、夏目に字を書かせてお礼に寄せられたのがもとで、自分でも所望して手に入れたようでした。ことに蔵沢の墨竹はたいへん珍重しまして、自分でもそれを手本に竹を描くというので、毛氈の上に紙をひろげて、尻をはし折って一気に墨痕淋漓と勢いよくかきあげようというので大騒動でした。もっともこれは大病のなおったたしか翌年ごろだったと思いますが、この蔵沢張りの墨竹をやたらに描いた時代がございます。(漱石の思い出)

大正4年(1915)、1月30日〜2月23日まで「硝子戸の中」を東京大阪両朝日新聞に連載。3月19日、京都旅行に出発。旅先で胃潰瘍再発。4月17日、帰京。6月3日〜9月14日まで「道草」を東京大阪両朝日新聞に連載。10月10日、「道草」出版(岩波書店)。

大正5年(1916)、1月1日〜21日まで「点頭録」を東京大阪両朝日新聞に連載。1月28日、リューマチスの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。2月19日、芥川龍之介宛書簡で、「鼻」を激賞。5月26日〜12月14日(大阪は27日)まで「明暗」を東京大阪両朝日新聞に連載。11月22日、胃潰瘍の病状悪化。12月9日、死去。導師は釈宗演。戒名、文献院古道漱石居士。(49歳)

■この年譜は、「漱石研究年表・著ー荒正人、監修ー小田秀雄、集英社」、「決定版夏目漱石・江藤淳、新潮社」、「漱石の思い出・夏目鏡子述、松岡譲筆録、岩波書店」より作成した。

松岡譲
明治24年(1891)〜昭和44年(1969)

新潟県古志郡石坂村(現長岡市)に生まれる。父は真宗大谷派の僧。大正6年(1917)、東京帝国大学哲学科卒業。在学中、夏目漱石の門下生となり、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らと『新思潮』に参加。大正6年(1917)、『法城を護る人々』を『文章世界』に発表。大正7年(1918)、漱石の長女筆子と結婚。大正10年(1921)、『モナ・リザ』発表。大正12年(1923)、『法城を護る人々』(第一書房)刊行。ベストセラーとなる。作品他に、『敦煌物語』、『漱石先生』、『ああ漱石山房』など。

夏目漱石 山高月上遅
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