岡倉天心 Okakura Tenshin

文久2年(1863)〜大正2年(1913)

福井藩の下級藩士、岡倉覚右衛門の次男として横浜に生まれる。幼名、初め角蔵、のち覚蔵。雅号、天心、種梅。(平生、書などの揮毫以外は、著書名も含め、本人も世間も覚蔵で通し、一般的に天心と呼ぶのは、大正11年に日本美術院が『天心全集』を刊行して以降。) 父覚右衛門は、同藩の横浜商館(石川屋、越州屋)手代として、横浜に赴任していた。乳母つねは、橋本左内の身内であった。明治2年(1869)8歳、このころから、James Ballaghの私塾に通って英語を習い始める。(明治4年ころに開設された英学塾高島学校にも通い、Jamesの弟Jhon Ballaghにも習う。) 明治3年(1870)9歳、生母この、死去。明治4年(1871)10歳、神奈川の生母の菩提寺長延寺に預けられ、住職の玄導和尚から漢学を学ぶ。明治6年(1873)12歳、商館の閉店により、覚右衛門一家は、東京日本橋の福井藩下屋敷の一角に移転する。同年、東京外国語学校下等第一級に入学。明治8年(1875)14歳、新設された東京開成学校(東京大学の前身、校長浜尾新)高等普通科に給費生として入学、寄宿舎に入る。明治9年(1876)15歳、南画家奥原晴湖に入門。明治11年(1878)17歳、フェノロサ、東京大学に招かれる。この頃、漢詩人森春濤に漢詩を、加藤桜老に琴を習ったといわれる。明治12年(1879)18歳、大岡定雄の娘もと(13歳)と結婚。明治13年(1880)19歳、東京大学文学部卒業(第一期生)。(卒業論文は『国家論』であったが、懐妊中の妻に夫婦喧嘩の際に焼かれてしまい、急ぎ二週間で、『美術論』を書き上げ提出したという。) 同年9月、フェノロサの通訳として、京都、奈良の古寺調査に同行。同年10月、文部省に就職し、音楽取調掛に勤務。明治17年(1884)23歳、文部省による京阪地方古社寺調査に就く。顧問として、フェノロサ、加納鉄哉らも参加。調査中、法隆寺の夢殿を開扉する。明治19年(1886)25歳、図画取調掛主幹に就任。同年10月、美術取調委員として、フェノロサと共に欧米に出発。明治20年(1887)26歳、横浜に帰着。ワシントンにいた全権大使九鬼隆一の病身の夫人はつも同行する。同年10月、東京美術学校幹事に就任。明治21年(1888)27歳、1月、この頃、フェノロサ、今泉雄作、狩野芳崖、橋本雅邦らと、東京美術学校の開校準備に奔走する。明治22年(1889)28歳、2月、東京美術学校の授業が開始される。同年5月、帝国博物館理事並びに美術部長に就任。同年8月、高田早苗らと演劇の革新をはかって日本演芸協会を起こす。明治23年(1890)29歳、東京美術学校校長に就任(教授兼務)。明治26年(1893)32歳、7月、中国美術調査のため清国にに出発。同年12月、帰国。明治31年(1898)37歳、3月、「築地警醒会」の名で、天心を中傷した怪文書が出回る。同月、東京美術学校長の辞表を提出、免職される。同4月、東京美術学校教授橋本雅邦以下34名が連名により辞職を声明。同年7月、東京美術学校を辞職した画家たちと、本郷湯島天神町に日本美術院創立事務所を設ける。主幹に橋本雅邦、評議員長に天心、正員に下村観山、横山大観、菱田春草ら26名、名誉賛助会員に、二条基弘、川上操六、谷干城、フェノロサ、ビゲロウら、特別賛助員に、川合玉堂、幸田露伴、尾崎紅葉、坪内逍遙らが名を連ねる。同年10月、絵画共進会と合同で、日本美術院第一回展覧会を開催。明治34年(1901)40歳、12月、インドへ向け出発。インド滞在中、ラムナッド国王の招待を受け、宗教哲学者ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)、その弟子で『東洋の理想』の序文を記したシスター・ニヴェディタ(Ni-vedita)、詩人ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)らと親しく交わり、『東洋の理想(The Ideals of the East)』を脱稿し、『日本の覚醒(The Awakening of Japan)』のノートを執筆する。同年10月、帰国。明治36年(1903)42歳、『東洋の理想(The Ideals of the East)』をロンドンのジョン・マレー社から出版。明治37年(1904)43歳、2月、横山大観、菱田春草、六角紫水とアメリカへ出発。滞在中、ボストン美術館のエキスパートとなり、同館所蔵の日本絵画3642点の目録を作成する。同年11月、『日本の覚醒(The Awakening of Japan)』をニューヨークのセンチュリー社より出版。明治38年(1905)44歳、3月、帰国。同年10月、アメリカへ出発。同年11月、ボストン美術館中国日本美術部長を要請されるが断り、アドバイザー(顧問)に就任する。明治39年(1906)45歳、4月、帰国。5月、『茶の本(The Book of Tea』をニューヨークのフォクス・ダフィールド社から出版。明治39年(1906)45歳、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山、家族とともに五浦に移転。大正2年(1913)52歳、2月、オペラ台本『The White Fox(白狐)』を執筆。同年9月1日、赤倉山荘にて死去。

岡倉天心 森田思軒あて書簡
森田思軒あて書簡
岡倉天心 書簡(妻・基子宛て)
書簡(妻・基子宛て)

画像をクリックしてください