松平義建 Matsudaira Yoshitatsu

寛政11年(1800)〜文久2年(1862)

美濃高須藩の第10代藩主。

通称範次郎字は懿徳、秉斎・芳潤堂・賞蘭斎と号する。寛政十一年十二月十三日に水戸藩小石川邸に生まれる。生母は平松氏の女おたき(清琳院)。文化六年十歳の時、兄義質の逝去に伴い水戸藩小石川邸から高須藩四ッ谷屋敷に移る。初め水戸藩の儒学者岡崎槐陰に学ぶ。天保三年三月六日高須藩主を継ぐ。文化十三年十二月十六日従五位下に叙爵、掃部頭に任官、同日、従四位下に叙爵、侍従に任官、掃部頭を兼ねる。文政七年十月九日掃部頭改め摂津守となる。天保三年十二月二十八日左近衛少将に任官、摂津守を兼ねる。嘉永三年十月隠居後摂津守改め中務大輔となる。正室は水戸藩主徳川治紀の娘、規姫。九男九女あり。次男慶勝、第十四代尾張藩となる。三男武成、石見濱田藩松平右近将監武楊の養子となる。五男義比、第十一代高須藩主となる。六男容保、会津藩主松平肥後守容敬の養子となる。七男定敬、桑名藩主、松平越中守定猷の養子となる。九男義勇、第十三代高須藩となる。七女幸姫、上杉式部大輔茂憲に嫁ぐ。『松尾多勢子伝』に旧高須藩士筧元忠の談話として「義建侯、摂津守と称す。文武に秀で、才幹あり。性頗る厳格、列候孰れも懽服す。酒癖ある松平容保(義建の子)の如き、酣醉するも摂津守の前にては敢て亂言噪狂を爲さざりきと。夫人は水戸烈公の妹なれば、水戸公と大いに親密に、随って権勢赫々、幕府にありては大廣間首席の地位を占め、島津・毛利・山内の諸候皆之に見事し頗る重きをなせり。共に政に與る諸候、摂津守に依頼する所甚だ多く、将軍亦よく摂津に聽き給へりと伝ふ」とある。高須入部の折、館の修繕は必要なしとし倹約につとめた。また、高須の法華寺等に治水の神禹王の像を勧請した。尾張藩書物奉行深田正韻、大道寺玄蕃直寅、同家臣水野正信らと交わる。四ッ谷藩邸にてお庭焼「魁翠焼」を行う。書家佐々木宗六の弟子の尾張藩士三好六左衛門に筆道を学び、各所に扁額を贈っている。嘉永三年十月十六日隠居する。在任年数は十八年。 文久二年八月二十九日逝去、享年六十四歳。諡号は芳潤院建譽魁翠秉斎。(天保會記鈔本、諸家雑談、松濤棹筆、高藩紀事、名古屋市史人物編、松尾多勢子伝)

(大野正茂編・高須藩人物略誌より)

高須四兄弟(名古屋藩主徳川慶勝・茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬)の父として知られる。

松平義建 楽只
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