山内容堂 Yamauchi Yodo

文政10年(1827)〜 明治5年(1872)

第10代土佐藩主山内豊策の5男豊著の長男(母は側室)。元服後から隠居までは豊信(とよしげ)と名乗り、隠居後、容堂と号した。嘉永1年(1848)、第15代土佐藩主となる。

開明派の吉田東洋らを登用して藩政改革を断行する。安政5年(1858)、一橋慶喜の将軍擁立に動くが、徳川慶福を推す井伊直弼らに敗れたことにより、安政6年(1859年)、自ら蟄居するも、あらためて幕府から謹慎を命じられる。文久2年(1862)、謹慎が解かれ、藩政に復帰、台頭した武市瑞山(半平太)を首領とする土佐勤王党を弾圧する。慶応3年(1867)、後藤象二郎から「船中八策」を進言され、公武合体、幕藩体制の維持を意図し、徳川慶喜に大政奉還を建白する。開明的藩主として改革的ある一方で、土佐勤王党への厳しい弾圧など、勤王志士からは、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、西郷隆盛をして、「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と言わしめた。維新後は、内国事務総裁に就任するが、明治2年(1869)、辞職。隠居後は、東京板橋区橋場別邸(綾瀬草堂)で、側妾を十数人囲い、酒と女と詩文に明け暮れた。その酒好きから、自ら「鯨海酔侯」と称した。

山内容堂 詩書
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