竹久夢二 Takehisa Yumeji

明治17年(1884)〜昭和9年(1934)

岡山県邑久郡本庄村(瀬戸内市)に生まれる。本名、茂次郎。父、菊蔵は酒の販売を営んでいた。(夢二には姉と兄がそれぞれ一人あったが、兄は夢二が生まれる間に夭逝しており、夢二は長男として家族に大切にされ、瀬戸内の陽光と美しい自然のなかで、不自由のない幼少期を送った。)明治32年(1899)16歳、神戸の叔父を頼り、神戸中学に入学するが、家業の不振により在学8ヶ月で中退。同年12月、一家で福岡県八幡村枝光(北九州市)に転居。明治34年(1901)18歳、家出同然に上京。明治35年(1902)19歳、早稲田実業学校に入学。車夫、書生などをし、明治38年(1905)、早稲田実業学校専攻科に進学。この頃、荒畑寒村と出会う。同年、読売新聞に「竹久?子」のペンネームで「可愛いお友達」を投稿。続いて「夢二」の名で「中学世界」に応募したコマ絵が第一賞となり、「中学世界」、東京日日新聞に掲載の場を持つ。同年7月同科中退。明治39年(1906)23歳、島村抱月編『少年文庫』の装幀を担当。同年11月、エハガキ店「つるや」を開店したばかりの岸たまきと出会い、ブロマイドや芸者、役者絵も扱うよう助言し、また、毎日のように、自ら描いた早慶戦の野球スケッチエハガキを持ち込んだ。明治40年(1907)24歳、岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し、時事スケッチを担当。明治41年(1908)25歳、長男、虹之助生まれる。この頃、本格的な画家になろうと、水彩画「BROKEN MILL AND BROKEN HEART」を描き、大下藤次郎を訪ねる。

《二十一の時だつた。私の下宿の近所に大下藤次郎という畫家が住んでゐた。今の新潮社の前身新聲社から「水彩畫の栞」という當時唯一のハイカラの畫の本をその人が書いたのを讀んでゐたのが縁で、描いた畫をもつて訪ねていつた。先生は私の畫を見て、「私にはわからない、これは岡田君の許へいつたら參考になる話が聞かれるだらう」と言ふのだ。
畫というのは、關口の水車場を描いた「ブロークンミル・アンド・ブロークンハート」(破れた水車と破れた心)といふので、暴風雨の翌日、水車場の水車が壞れて、そこへ水車場の主人が悲しさうな顏をして、水車を見てゐる圖だつた。 岡田三郎助氏はやはり私の畫をわかつてくれられた。私はその時、美術學校へ入つて正則に勉強したい希望を述べると、先生は言はれる。
「美術學校という所は、畫のABCを教へる所だし、生徒をみんな一様に育て上げるのだから君には向かない。向かないばかりでなく、折角君の持つてゐる天分をこはすかも知れない」
「それでは私は勉強しないでもエラクなれませうか?」私はさう言つて訊ねた。
岡田先生は「いや學校の生徒よりもつと勉強しなくてはいけない。自分の傾向に一番ふさはしいデツサンをしつかりやつて自分を自分で育ててゆかなくちやいけない」
「ではどうして、そのデツサンをやりませう」
「どこか自由な研究所へでもゆくと良い」
そんな事で、それから一年後か二年後だつたか、その頃小石川の原町にあつた小林鐘吉氏の研究所へ通つたが、何でも三日ほど通つて、ゴムのかはりに使ふパンを三斤ほど食つただけでよしてしまつた。やはり多勢の人中で一所にわいわいやるのは私に性に合はなかつたらしい。》(砂がき・竹久夢二)

明治42年(1909)5月26歳、岸たまきと離婚。その後6年ほど、同居、別居をくり返し、次男、不二彦、三男、草一をもうけた。同年12月、最初の著作「夢二画集−春の巻」(洛陽堂)発刊。明治45年(1912)29歳、京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」を開催、連日満員で好評を博す。同年、雑誌『少女』誌上に、「さみせんぐさ」の筆名で「宵待草」の原詩を発表。大正2年(1913)29歳、「どんたく」刊行、「宵待草」を現在の詩形で発表。大正3年(1914)11月31歳、日本橋区呉服町に「港屋」を開店、女子美術学校に通う笠井彦乃と出会う。恩地孝四郎、藤森静雄、久本信男、宮武辰夫、東郷青児らが毎日のように出入りする。大正5年(1916)33歳、「セノオ楽譜」第十二番「お江戸日本橋」の表紙を描く。以降、270余の「セノオ楽譜」の表紙を描く。同年11月、京都へ移る。大正6年(1917)34歳、笠井彦乃、京都へ来る。大正7年(1918)35歳、京都府立図書館で「第二回夢二作品展覧会」を開催。同年9月、九州旅行中、別府で笠井彦乃入院。同年11月、東京に帰り、恩地孝四郎方に身を寄せる。大正8年(1919年)36歳、佐々木カ子ヨ(お葉)と出会う。大正9年(1920)37歳、笠井彦乃病没。(25歳)。大正10年(1921)38歳、1月、冬の東北を旅行、「春まつ人」「桜下五美人」など秀作を多く描く。佐々木カ子ヨと渋谷に同居する。同年8月、福島、会津、郡山などに旅行、各地で画会を開催する。大正12年(1923年)40歳、恩地孝四郎らと「どんたく図案社」(顧問に藤島武二、岡田三郎助ら)を企画するが、関東大震災(大正関東地震)で頓挫。大正13年(1924)41歳、東京府荏原郡松沢村松原(東京都世田谷区松原)に自ら設計したアトリエ兼住宅「少年山荘」(山帰来荘)が完成。佐々木カ子ヨ、虹之助、不二彦と住む。大正14年(1925)42歳、山田順子が現れ、佐々木カ子ヨは去る。同年7月、山田順子と別れる。昭和5年(1930)47歳、「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を発表。(実現せず)昭和6年(1931)48歳、3月から5月にかけ、新宿三越他で「渡米告別展」を開催、同年5月7日、アメリカに向けて横浜を出航。カリフォルニア・カーメル、ロサンゼルスで個展を開催する。昭和7年(1932)9月、アメリカを発ち、ヨーロッパに渡る。ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスと巡り、ベルリンのヨハネス・イッテンが主宰する画塾では、日本画講師を務める。昭和8年(1933)9月、に帰国。同年10月、台湾に渡り講演をし、台北市で「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催する。昭和9年(1934)、1月19日、信州富士見高原療養所に入院。同年、9月1日、死去。享年49歳。

竹久夢二 笠美人
笠美人
竹久夢二 晩春別離
晩春別離
竹久夢二 濡縁に〜
濡縁に〜

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