矢橋六郎特集 / 長良川画廊

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矢橋六郎Yabashi Rokuro

明治38年(1905)~昭和63年(1988)

明治38年(1905)、岐阜県不破郡赤坂町(現大垣市)に、県下屈指の素封家一族で矢橋大理石商店を創業した矢橋亮吉の第六子として生まれる。大正14年(1925)、東京美術学校西洋学科に入学。在学中、同級の山口薫らと、批評会「春秋会」を毎月開催し、川島理一郎の「金曜会」に参加する。昭和5年(1930)、東京美術学校西洋学科を卒業。同年7月渡欧、山口薫、村井正誠とも合流し、ユトリロ、キスリング、ブラマンク、シャガール、モディリアーニなど、エコール・ド・パリの画家たちから大きな刺激を受ける。昭和8年(1933)、山口薫とともに帰国。昭和9年(1934)、長谷川三郎、大津田正豊、津田正周、村井正誠、山口薫、シャルル・ユーグらと「新時代洋画展」を結成。昭和12年(1937)、「新時代洋画展」のメンバー、村井正誠、長谷川三郎、山口薫、大津田正豊、津田正周、瑛九、浜口陽三らと「自由美術協会」の創立に参加。(会友に難波田龍起、小野里利信ら14名、顧問に今泉篤男ら13名の評論家。) 昭和25年(1950)、「自由美術協会」内の意見対立により、村井正誠、山口薫、中村真、荒井龍男、植木茂、小松義男、朝妻治郎とともに同会を脱会し、同年、同メンバーとともに、「モダンアート協会」の創立に参加する。以降、大垣に本拠を移し、家業の矢橋大理石商店の要職に付きながら、油彩画制作の他、多くの「大理石モザイク壁画」を制作し、日本の「大理石モザイク壁画」の第一人者となる。昭和34年(1959)、武蔵野美術大学講師、昭和37年(1962)、東京芸術大学講師に就任する。昭和48年(1973)、大垣市文化功労者表彰。昭和56年(1981)、「矢橋六郎・奥行彦・古川秀昭三人展」(名古屋丸善他3会場)。昭和63年(1988)7月4日、大垣市民病院で死去。

平成5年(1993)、「矢橋六郎&シャルル・ユーグ友情遺作展」(大垣市スイトピアセンタセンター・アートギャラリー)。平成14年(2002)、「モダンアートの旗手たち―村井正誠・矢橋六郎・山口薫―」(大垣市スイトピアセンタセンター・アートギャラリー他3会場)。平成17年(2005)、「生誕100年記念 矢橋六郎展 ―悠々なる色彩―」(大垣市スイトピアセンタセンター・アートギャラリー)。

日本近代洋画革新に重要な役割を果たす「新時代洋画展」、「自由美術協会」、「モダンアート協会」の中心メンバーとして活動し、山口薫、村井正誠らとともに、「モダンアートの旗手」の一人として評価される。

(モザイク壁画)
矢橋六郎が原画から制作したものとして、昭和37年(1962)大名古屋ビル《海》(現存)、昭和38年(1963)日比谷日生ビルフロアー(現存)、昭和39年(1964)名古屋駅《日月と東海の四季》(現存せず)、昭和40年(1965)岐阜県庁《春・夏・秋・冬》(現存)、東京交通会館《緑の散歩》(現存)、昭和41年(1966)自民党本部《実りの朝》(現存)、中日ビル《空の饗宴》(現存)、昭和43年(1968)大垣市民会館《花の如くに》(現存)、大垣商工会議所《流水》(現存)、中野区役所《武蔵野に想う》(現存)、昭和44年(1969)静岡県立文化センター《天地創造》などがある。