トップページ» 歴史人物» 春日局

学びのこころ掲載作品

D-138 春日局
Kasuga no tsubone

 春日局 1
 春日局 2

■上の画像をクリックしていただくと、別ウインドウが開きます。
その画像をもう一度クリックしていただくと拡大画面がご覧いただけます。

 春日局 3
 春日局 4
 春日局 4
作家名
D-138 春日局 かすがのつぼね
作品名
自筆消息
価格
6,500,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱 二重箱
本紙寸法41.6×27cm
全体寸法48×112cm
作家略歴

春日局
天正7年(1579)~寛永20年(1643)

名は福という。父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三。美濃国守護土岐家の老臣で守護代斎藤氏とも同族の名家の出である。天正10年(1562)4歳、本能寺で、信長襲撃の先方を務めた後、山崎の戦いで敗走。京都白川で自刃、あるいは捉えられ、洛中引きまわしの上、六条河原で斬首されたと伝えられる。母は稲葉一鉄の姪あん。稲葉一鉄は、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆の一人といわれ、土岐氏、斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将である。福の出生の地は、丹波黒井城下(兵庫県丹波市)の説(小和田哲男氏)があるが定かではない。

本能寺の変後、福は、母あん、4人の兄、二人の姉とともに、初め三条西家(稲葉一鉄の妻は三条西公条の娘)を頼り、その後、土佐国の大名長宗我部元親(元親の正室は父利三の妹)を頼り京都から土佐に逃れたという。

文禄3年(1594)16歳、小早川秀秋の家臣稲葉佐渡守正成と結婚。(寛政重修譜)

慶長2年(1597)19歳、長男千熊(後の徳川将軍家老中稲葉正勝)生まれる。(寛政重修譜)

慶長5年(1600)22歳、この頃、次男正定生まれる。

慶長6年(1601)23歳、正成、政事のことで秀秋を諫めたが容れられず、一族を従え、美濃国谷口(岐阜県関市武芸川町谷口)に閑居する。(寛政重修譜)この頃、三男若松を生むが早世。

慶長9年(1604)26歳、江戸西城において竹千代(家光)生まれる。竹千代の乳母となる。(大猷院殿御実紀)。この年、正勝(8歳)召されて上野、下野両国のうち五百石を拝領、月俸二十口を添えられ、竹千代につかえる。のち御小納戸となり、御徒の頭を歴て小姓組番頭となる。(寛政重修譜)この頃、四男正利生まれる。この頃、正成と離婚か。

慶長10年(1605)27歳、家康、将軍職を秀忠に譲る。

慶長12年(1607)29歳、正成、関ヶ原の戦の忠節により、美濃国羽栗郡に九千石。同国十七条の旧領一千石を賜わり、一万石領を賜る。

慶長16年(1611)33歳、竹千代の世嗣決定に尽力。

家康江戸城に来たる。秀忠、大門まで出迎え、若君、国松君も庇まで出迎え、左右に付き添い、家康の手をとって座につく。御台所(お江)にも対面、山海の珍味を饗せられる(世に伝えるところによれば、国松君を御台所格別に溺愛し、人々も若君よりも国松君が次期将軍となると思い、日夜競って参り若君の方には参らず。春日局、ひそかに兄右近太夫直勝にそのことをかたらい、直勝、秀忠に嫡位を定めてほしいと言上したが、聞き入れられず。そのことを聞いた春日局その夜より行方しれず。この程、局のはからいで、若君の女房三人を伊勢参宮として遣わす。局もひそかに所願あってその女房等にまぎれて出たのであろう。局はやがて帰り、その後程なくして駿河の家康江戸に来たり、竹千代を嗣子とすることを定めたという。(落穂集・藩翰譜)

(別冊歴史読本、吉見周子氏詳細年表より)

元和2年(1616)38歳、家康没。

元和4年(1618)40歳、最初の「大奥法度」制定される。

元和9年(1623)44歳、秀忠、将軍職を家光に譲る。大奥女中総取締りとなる。

寛永6年(1629)50歳、家光が痘瘡(天然痘)にかかる。その看病の際、薬絶ちの願掛けをする。紫衣事件に端を発した、対朝廷問題の幕府特使として後水尾天皇に謁見。春日局の称号賜る。

家光公二十五歳、疱瘡を患いて危うし。春日局神に祷りて曰く、家光公良薬を得、其の効を得ば、即ち我一生の間服薬すべからず(春日局譜略)

(春日局・小和田哲男氏より)

寛永8年(1631)53歳、多賀大社に秀忠の病気平癒を祈願 。彦根城の井伊直孝に密旨を伝える。

寛永11年(1634)56歳、天沢寺渭川より、「麟祥院殿仁淵了義大姉」法号を賜る。

寛永17年(1640)62歳、日光東照宮に参詣し、「東照大権現祝詞」を奉納。

寛永20年(1643)64歳、麟祥院に葬られる。

辞世

西に入る月を誘い法をへて今日ぞ火宅を逃れけるかな

今日まではかわく間もなく恨み詫び嵐に迷う曙の空

コンディション他

【翻刻案】

 (追て書)
 「たま御こし之儀可然申入候、」
一 こん三郎御のほせ候、公事工マせまいらせ候、
一 我等心もよく、文かきつかいましく候、
一 まめに文まいらせ候、うれしく申候、
一 しゆんしゆゐん被遺候、仍申上候、たまいたり可申候、
一 四郎右衛門かたへノ状、よふゝゝかきくたし申候、
 いつれもゝゝゝゝそくさい何より々ゝゝにて、
 かねも入不申候、いのち申乞々々
 心に何レハかけたく、ひろゝゝと
 めてたくよろこひ、めてまいらせ候、
 たれをたのミも入うさくよし

ワれか

 身ならてハ、まいらせ可給候、

めてたく

かしく

 たま可給候、共ニまいらせ可給候、

かしく

御こ殿まいる  かすか

【読み下し案】

たま御こ(越)しの儀、しかるべく申し入れ候。
一 こん(権)三郎御のぼ(登)せ候。公事工(くじたく)ませまいらせ候。
一 我等心もよく、文か(書)きつかいまじく候。
一 まめに文まいらせ候。うれし(嬉)く申し候。
一 しゆんしゆゐん(真珠院)遺わされ候。よって申し上げ候。たまいた(至)り申すべく候。
一 四郎右衛門かた(方)への状、よふよふか(書)きくだし申し候。いつれもいつれもそく さい(息災)何より何よりにて、かね(金)も入り申さず候。いのち(命)申し乞い申し乞い、心に何(いず)れはかけたく、ひろ(広)びろとめでた(目出度)くよろこ(喜)び、め(愛)でまいらせ候。たれ(誰)をたの(頼)みも入りうざくよし、われ(我)が身ならでは、まいらせ給うべく候。めでた(目出度)く、かしく。たま給ふべく候。共にまいらせ給うべく候。かしく。

御こ殿まいる      かすか

【文意案】

珠お送りの件、しかるべく申し入れる。
一 こん(権)三郎が(京都へ)お登りになり、公事(訴訟)の工作をなさることを承知した。
一 私は心地よいので、手紙を書き遣わさなくてもよろしい。
一 まめに手紙をくだされ、嬉しく思う。
一 しゅんじゅ院を遣わされた。よって申し上げる。珠を寄越しなさい。
一 四郎右衛門(板倉勝重)方への(依頼)状を、ようやく書いて下した。私の方はいずれも息災で何よりである。金も入らない。私は命の申し乞いを、心にいずれはかけたいと思っている。広々と目出度く、喜びを愛でられるように。誰を頼みにするのも鬱陶しい。私の身なので、お気遣いはいらない。目出度く、かしく。珠をくださるように。(公事進捗の様子?と)ともに寄越されるように。かしく。

御こ殿まいる      かすか

【註記】

・「たま」………………霊・玉・珠? 数珠の珠(宝石)でしょうか?
・「こん三郎」…………権三郎。大名の可能性があります。
あるいは春日局が生まれた稲葉家の縁戚かもしれません。
・「しゆんしゆゐん」…「しゅんじゅ」院、あるいは春秋院。書状では呼び捨てであり、春日にとって目下の女性であり、「御こ殿」を含めた三人は知己の間柄とみられます。真珠院(川崎六郎左衛門の娘。春日局によって家綱の乳母に抜擢された。大奥年寄「川崎」)は、時期的に院号で登場することが不自然であり要検討でしょう。後西天皇(一六三七~八五)の妹に真珠院がいましたが、これも時期が違い要検討でしょう。
・「四郎右衛門」………呼び捨てであり、目下の扱いです。京都所司代の板倉勝重(一五四五~一六二四)に比定されます。
同人は、慶長六年(一六〇一)頃、家光の乳母を募集して、福(のちの春日局)を抜擢したとの説があります。
・「御こ殿」……………御子殿・御小殿? 女性。
あるいは「こん」三郎の母ないし室でしょうか? 居所は江戸でしょうか?
・「かすか」……………春日。春日局(一五七九~一六四三)に比定されます。文面からかなりの老齢にあることがわかります。書風からして、春日局晩年の寛永期の消息と思われます。

書風は寛永期の特徴がうかがえます。当時の祐筆による女房奉書の形式はふんでおらず、ストレートな書き出しは、「かすか」と御こ殿との親密な関係の反映と思われます。内容は、「こん三郎」とごく近い関係にある「御こ殿」が、「こん三郎」の訴訟含みの上洛を伝え、暗に京都所司代板倉への工作を「かすか」に依頼したものらしく、それに対する「かすか」の返書とみなします。翻刻・解釈ともに未熟であり、不明な点も多々ありますが、それは今後の課題です。昭和30年前後、東京国立博物館において展示されたらしく、その出品票が同封されています。また、近世初期政治史の研究者諸氏から真筆の評価をいただいております。春日局の祐筆による女房奉書ですら伝存数はわずかであり、市場に出ることはほとんどありません。この消息文はさらに加え、書風・形式・内容から、当代希有の春日局の自筆消息としてご案内申し上げます。

ご購入前にこちらをご一読ください。

この作品の購入お申込み

作品紹介

Web
書画ミュージアム

長良川画廊
アーカイブス

過去の掲載作品より随時拡張中