春日局 Kasuga no Tsubone

天正7年(1579)〜寛永20年(1643)

名は福という。父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三。美濃国守護土岐家の老臣で守護代斎藤氏とも同族の名家の出である。天正10年(1562)4歳、本能寺で、信長襲撃の先方を務めた後、山崎の戦いで敗走。京都白川で自刃、あるいは捉えられ、洛中引きまわしの上、六条河原で斬首されたと伝えられる。母は稲葉一鉄の姪あん。稲葉一鉄は、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆の一人といわれ、土岐氏、斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将である。福の出生の地は、丹波黒井城下(兵庫県丹波市)の説(小和田哲男氏)があるが定かではない。

本能寺の変後、福は、母あん、4人の兄、二人の姉とともに、初め三条西家(稲葉一鉄の妻は三条西公条の娘)を頼り、その後、土佐国の大名長宗我部元親(元親の正室は父利三の妹)を頼り京都から土佐に逃れたという。

文禄3年(1594)16歳、小早川秀秋の家臣稲葉佐渡守正成と結婚。(寛政重修譜)

慶長2年(1597)19歳、長男千熊(後の徳川将軍家老中稲葉正勝)生まれる。(寛政重修譜)

慶長5年(1600)22歳、この頃、次男正定生まれる。

慶長6年(1601)23歳、正成、政事のことで秀秋を諫めたが容れられず、一族を従え、美濃国谷口(岐阜県関市武芸川町谷口)に閑居する。(寛政重修譜)この頃、三男若松を生むが早世。

慶長9年(1604)26歳、江戸西城において竹千代(家光)生まれる。竹千代の乳母となる。(大猷院殿御実紀)。この年、正勝(8歳)召されて上野、下野両国のうち五百石を拝領、月俸二十口を添えられ、竹千代につかえる。のち御小納戸となり、御徒の頭を歴て小姓組番頭となる。(寛政重修譜)この頃、四男正利生まれる。この頃、正成と離婚か。

慶長10年(1605)27歳、家康、将軍職を秀忠に譲る。

慶長12年(1607)29歳、正成、関ヶ原の戦の忠節により、美濃国羽栗郡に九千石。同国十七条の旧領一千石を賜わり、一万石領を賜る。

慶長16年(1611)33歳、竹千代の世嗣決定に尽力。

家康江戸城に来たる。秀忠、大門まで出迎え、若君、国松君も庇まで出迎え、左右に付き添い、家康の手をとって座につく。御台所(お江)にも対面、山海の珍味を饗せられる(世に伝えるところによれば、国松君を御台所格別に溺愛し、人々も若君よりも国松君が次期将軍となると思い、日夜競って参り若君の方には参らず。春日局、ひそかに兄右近太夫直勝にそのことをかたらい、直勝、秀忠に嫡位を定めてほしいと言上したが、聞き入れられず。そのことを聞いた春日局その夜より行方しれず。この程、局のはからいで、若君の女房三人を伊勢参宮として遣わす。局もひそかに所願あってその女房等にまぎれて出たのであろう。局はやがて帰り、その後程なくして駿河の家康江戸に来たり、竹千代を嗣子とすることを定めたという。(落穂集・藩翰譜)

(別冊歴史読本、吉見周子氏詳細年表より)

元和2年(1616)38歳、家康没。

元和4年(1618)40歳、最初の「大奥法度」制定される。

元和9年(1623)44歳、秀忠、将軍職を家光に譲る。大奥女中総取締りとなる。

寛永6年(1629)50歳、家光が痘瘡(天然痘)にかかる。その看病の際、薬絶ちの願掛けをする。紫衣事件に端を発した、対朝廷問題の幕府特使として後水尾天皇に謁見。春日局の称号賜る。

家光公二十五歳、疱瘡を患いて危うし。春日局神に祷りて曰く、家光公良薬を得、其の効を得ば、即ち我一生の間服薬すべからず(春日局譜略)

(春日局・小和田哲男氏より)

寛永8年(1631)53歳、多賀大社に秀忠の病気平癒を祈願 。彦根城の井伊直孝に密旨を伝える。

寛永11年(1634)56歳、天沢寺渭川より、「麟祥院殿仁淵了義大姉」法号を賜る。

寛永17年(1640)62歳、日光東照宮に参詣し、「東照大権現祝詞」を奉納。

寛永20年(1643)64歳、麟祥院に葬られる。

辞世

西に入る月を誘い法をへて今日ぞ火宅を逃れけるかな

今日まではかわく間もなく恨み詫び嵐に迷う曙の空

春日局 自筆消息
自筆消息

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