清沢満之
Kiyosawa Manshi

学びのこころ掲載作品

 清沢満之 1
作家名
清沢満之 きよざわ まんし
作品名
五言連句幅 必當値賢聖 至此生死源
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法29×133.7p
註釈

《必當値賢聖 至此生死源 壬寅秋日 清澤臘扇書》

必當(ひっとう)賢聖(けんじょう)に値(あい)て此(こ)れ生死(しょうじ)の源(みなもと)に到るべし

※掛け軸巻き留めに、「小林信子女子より歸る、江口」とあり、「小林信子女子」は、静坐社を運営した小林信子(1886-1973)と思われる。

【後記】

 清沢満之の遺墨を入手したのは、今回が初めてのことである。清沢満之の現存する遺墨は極めて少ない。それは彼が書を書くことに大きな意味を置かなかったからだと思う。それは、そもそも私の勝手な憶測であるが、書は我執を嫌うので、自身の我執を強く自覚していた満之は、書を書くことを自戒したのかもしれない。あるいは、書は身体から霊的なものへの経路でもあるから、清沢満之の強靱な理性は、それを身体的に嫌ったのかもしれない。あるいは、満之の絶対他力の思想と関係するのかもしれない。それはさておき、この書が書かれたのは、書中年紀より、死の前年に当たる、明治35年秋である。満之は、同年の11月5日、大浜に帰る。この時の満之の様子について、『浄土仏教の思想・十四 清沢満之』(脇本平也/講談社)に次のように記されている。

十月二十二日、満之は大学学監を辞任した。身辺整理の後、十一月五日夜九時、浩々洞の門外に見送る愛弟子たちと別れて、三河大浜へと引き揚げて行った。このときの満之の様子を、「顔面沈鬱、亦た多くを語り給はざりき」と安藤州一は描いている。近角常観が伝えるつぎのような清沢満之の言葉も、やはりこのときのものではなかったかと思われる。今年は皆んな砕けた年であった。学校は砕ける、妻子は砕ける、今度は私が砕けるであらう。

 これにより、この時の清沢満之は、自らの死が近いことを予感していたことは明らかである。「必當値賢聖 至此生死源」の書にに込められた心の内と、出所が三河近辺であることから、この書が書かれたのは、大浜に帰った11月6日以降であり、さらに、「臘扇」の署名により、「浜風」の号を作製したと日記に記された明治36年4月26日以前であると推定して間違いないだろうと思う。
 私は、私の仕事机の前に、満之のポートレートを置いて、いつもそれを眺め、いつかはこの人物の書を手に入れたいと願っていた。私はこの書画の仕事に携わることになって30年を過ぎるが、今年の9月に、初めてこの清沢満之の書に出会い、遂にそれを入手した。それまでは、どこかの交換会(オークション)に出たという噂を聞いたことはあったが、私の現前に現れたのは、この書が始めてである。「同朋佛教第38号平成14年(同朋大学仏教学会)」に掲載された青木馨氏の『清沢満之の墨蹟について』には、「近時京都の古美術商より幾つかの偽作と思われる墨蹟が、高額で目録販売されており、あらためて真蹟を写真紹介しておく」とあり、現在までに確認された真蹟として16点が紹介されている。この16点という数の少なさと、さらに偽作もあるとなれば、いかに清沢満之の書を我が手中にすることが困難なことか想像できると思う。我が子可愛さゆえの買いかぶりかもしれないが、この「必當値賢聖 至此生死源」の書は、その16点のどれよりも、気魄に満ちた、渾身の一筆であると思う。

 さて、私は、清沢満之の何に惹かれていたのだろうと思う。そのことをこの書を入手してからずっと考えている。
 山崎弁栄は聖者といわれた。清沢満之は、聖者ではなかった。山崎弁栄は出家者で清沢満之は在家者と言っても間違いではないだろうと思う。私は先に、「山崎弁栄は、元より信仰の内側にあって…」と書き、「清沢満之は、元より信仰の外側にあって…」と書いたのは、人が、どこに立脚地をおいて宗教というものを考えるのかということに関心が向ったからである。清沢満之という人は、どこまでも理性を足場にしてでしか宗教というものを捉えられなかった人である。そして、「絶対無限ノ妙用ニ乗託シテ仁雲ニ法爾二此現前ノ境遇ニ落在」することが最後までできなかった人である。宗教理論をいくら打ち立てても、それに従って自身も実践しようとしても、理論で信じる如来に出会えるはずがない。私は山崎弁栄記念館を訪れる人のなかに、しばしば、すーっと身をゆだねるように、山崎弁栄の描いた阿弥陀如来と向きあう人を見る。仏教でいう感応道交のようなことであると思うが、一時間でも二時間でも静かに座って、時には涙が頬をつたうのを見ることもある。清沢満之は、そういう人ではなかったと思う。なかったが、自己が何であるか、何が善で何が悪で、何が真理で何が非真理であるか、悩んでも悩んでも、どうにも解決のできない人であった。私は、宗教という言葉の意味は、多様な信仰の形の総称であり、逆さにすれば、信仰のない宗教は宗教ではないということになる。また、信仰というものは、心の内の経験として起こることであり、そこに至る道に、清沢満之のように苦難の道を歩まねばならなかった人もいれば、最初からすーっと身をゆだねる人がいて、そのどちらも、信仰の経験であることには変わりはないように思う。

 批評家の吉本隆明は、『最後の親鸞』のなかで、次のように述べている。

 どんな自力の計らいもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉のほうが、弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。…… 親鸞は〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。

 〈知〉の極北にあった清沢満之は、最後まで〈知〉の足場から足を離さず自己の思想を深めることで〈愚〉に向かおうとした宗教家であったと私は思う。
  親鸞は自らを非僧非俗といった。歎異抄の深い理解者である彼が、親鸞の思想をどう受け取っていたか。〈非知〉であること、それが宗教を失ったわれわれ日本人にとって、宗教の彼方にある、〈浄土)の新しい像であるのか。清沢満之の身をもって示してくれたことのなかに、私はその可能性を予感するし、また、そこに清沢満之の浄土思想の近代性があるのではないかと思う。

(店主記)

【補記】

 本作品が、いつ書かれたものであるか、私は後記において、
「大浜に帰った11月6日以降であり、さらに、「臘扇」の署名により、「浜風」の号を作製したと日記に記された明治36年4月26日以前であると推定して間違いないだろう」 と書いた。それについて、書画をこよなく愛し、書画の蒐集と研究にその生活の全てを捧げているといって過言ではなく、私の書画に対する見識など遠く及ばない在野のある一居士より、書にある年紀「壬寅秋日」の「秋日」というのは、旧暦の7月から9月であるから、大浜に帰る11月6日以降ではない。また、「今年は皆んな砕けた年であった。学校は砕ける、妻子は砕ける、今度は私が砕けるであらう。」という、近角常観が伝える満之の言葉は、浩々洞から大浜に発つ明治35年11月5日ではなく、明治36年2月に、最後の上洛となる本山耆宿会議に出席し、京都から大浜に帰る際の言葉であるという二つのご指摘をいただいた。後者の満之の言葉については、法蔵館版の清沢満之全集第八巻の第四篇追憶・資料に、「先生最後に京都を去らるゝ時、私に申さるゝには、今年は皆んな砕けた年であった。學校はくだける、妻子は砕ける今度は私が砕けるのであらう。翌月遂になくなられたことである。」(近角常観・『清澤全集』U三六〇頁)とあり、ご指摘の通り、訂正しなければならない。書の制作時期については、「壬寅秋日」と記されているのであるから、旧暦の秋か新暦の秋のどちらかである。私はどちらにも断定できないのではないかと思う。明治5年、明治政府は、太政官布告「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」を布告している。それに対し、福沢諭吉は、「古来の大陰暦を廃し太陽暦に改むることにして、甚だ妙なり吾々の本願は唯舊(ただきゅう)を棄てヽ新に就かんするの一事のみなれば何は拆置(さてお)き先づ大賛成を表したりと雖(いえど))も抑(そ)も一國の暦日を變するが如きは無上の大事件にして之を斷行するには國民一般に其理由を知らしめて……」(福澤全集緒言)と『改暦弁』を発刊し、国民に改暦の意味を啓蒙した。この『改暦弁』は10万部を超える大ベストセラーであったという。つまり、それより三十年を経て、満之が新暦で年紀を記したとしても不思議ではないのではないか。
 私は、この書の出所が三河近辺であったことからも、長男信一、妻ヤスを相次いで亡くした後、大浜にあった11月11日以降、西方寺で書かれた可能性はあるのではないかと思う。いずれにしても、身体の激しい苦痛と絶望の淵にあって、満之の宗教的信念が強く表出した渾身の書であることには違いない。
 一居士は、さらに次のような意見を私に向けられた。それは、「清沢満之という人を現代にどうやって伝えていくか、それがわれわれにとって大きな課題ではないか」ということであった。そして、司馬遼太郎のエッセイ『清沢満之のこと』を読んでいるかと私に尋ねた。私は、司馬遼太郎が清沢満之について書いているということを知らなかった。私は早速それを読んだ。読んでみて、私などが余分なことを書くよりも、この『清沢満之のこと』を読んでもらったほうが、十万倍も百万倍も、世に清沢満之を知ってもらう切っ掛けになると強く思った。山崎弁栄を、多くの人が岡潔の文章から知ることができたように。 このエッセイをできればここにその全文を転載したいのだが、著作権を侵害する可能性があるので、一部ここに紹介して、全文は身近には『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫)に所収されていているので、是非それを多くの人が読まれるとよいと思う。

清沢満之のこと

司馬遼太郎

 清沢満之は、職業的僧侶の家にうまれたのでもなければ、鎌倉の高僧たちののようにみずから求めて仏門に入ったのでもない。貧窮がかれを他動的にその道に入らしめた。  幕末の動乱期がそこから出発するといっていい文久三年に、尾張徳川家の足軽組頭の家に生まれている。
 家は維新で窮迫した。十二歳で名古屋に新設された英語学校に入り、その廃校とともに十五歳で愛知県医学校に入り、ほどなくやめた。家計の窮乏によるものらしい。  近所に東本願寺の末寺があり、そこの者が、「京都の本山があたらしい育英事業を創め、寺門の子弟から格別の英才を募り、給費で学問をさせようとしている」という旨を満之に告げた。
 満之十六歳、僧籍を取得し、天保銭数枚をふところに入れて京へ行った。明治十一年でる。維新の動乱と、政府の神道優遇・廃仏毀釈政策と、キリスト教の進出などのなかにあって、東本願寺が、こういう形で宗門の恢弘をはかろうとした。満之は、「自分が僧になったのは、僧になれば、本願寺が学問させてやるといったからで、法然上人や親鸞聖人のように立派な心からではなかった」といっている。維新後、藩閥的思想からもれた旧尾張藩子弟の陽のあたらぬ青春像を、この惨憺たる経歴のなかで見ても見られぬことはない。  彼の両親は、郷党の驚異のまとであったかれの神童ぶりのなかに、一家の将来への希望を見出していた。だからこそ、英語学校、医学校といった、いかにも新時代的なそういう学問施設にかれを入れた。それが一転して過去の勢力の中に身を託さねばならない。−−−いや、そうでもないという見方もできる。元来、東海地方は東本願寺の金城湯池で、在家から僧になる者が多く、むしろそれが家の見栄であるという風習があり、かつ、清沢の母は娘のころから真宗の熱心な聞法家で、「薄紙一枚のところがまだわからない」とつねづねいっていた求道的性格のひとであった。それらが清沢の仏門入りの多少の因縁になっていたであろう。しかしいずれにしても就学の便宜を得るがためにかれは僧になった。この点、同時代に活躍するキリスト教の内村鑑三や新島襄などの青春像と多少色合いを異にしている。
 京都の本願寺施設で後の旧制中学に類似する学科を学び、他の二人の少年とともに明治十四年、東京は派遣され、大学予備校第二級生の編入試験をうけさせられた。京都では代数こそ学んだが、幾何は学ばなかったため、清沢はライトの幾何やブライアントの簿記を手に入れ、それをたった一月、下宿で読んだだけで試験をうけ、一位で合格した。在学中、物理学がすきで、当時予備門教授として教壇に立っていた田中正平に愛され、大学ではそれを専攻しようと思ったことがあるが、本願寺の給費生であるために、文科大学(東大文学部)哲学科に進んだ。同窓に、かれの生涯の支援者になった沢柳政太郎、上田万年などがいる。異常なほどの秀才で、「その成績は今日までの卒業者中三人とは下らない」という後年の上田万年の談話がある。

 在学中、哲学をフェノロサ教授に学んだ。清沢は晩年までフェノロサの学風を敬慕し、「ドイツ哲学の頂点であるヘーゲルと英国流の頂点ともいうべきスペンサーの思想を融合調和せしめるところに今後の哲学発展の方向を示唆した」旨のことを書いている。  さらに在学中、おなじ東本願寺給費生だった井上円了と語らい、井上哲次郎、三宅雄二郎、棚橋一郎、有賀長雄らとともに哲学会を創設し、「哲学会雑誌」を創刊した。発表の趣意書はおそらく井上円了が書いたのであろうが、本会は東、西哲学を比較研究しつつ「他日その二者の長ずる所を取りて一派の新哲学を組織するに至らば独り余輩のみならず日本全国の栄誉なり」といっている。清沢の青春をささえた情熱もこれだったといっていい。
 清沢は、諸学説の演述者としての哲学者になるには求道的性格がつよすぎたようであった。この点、かれの後進として出てくる西田幾多郎に酷似している。その性格を知るかぎにはなりにくいかもしれないが、二十歳のときの日記に、自分はうまれて20年になった、しかし何を得たかというに身丈がすこしのびただけである、これではならぬ、という焦燥感と自戒の言葉をつらねた文章のなかに、二十年という歳月の実感を「是を日数にすれば一年三六十日とするも七千二百日」と表現している。ここまでは普通よくある豈励まざるべけんや的表現だが、さらにかれは自分により深刻に実感させるために、「これを分にすれば、千三十六万八千分」、秒にすれば「六億二千二百八万秒となる」とまで書いている。ここまで計算してからやっと「二十年」という歳月をなっとくできる頭脳的性格だったのであろう。同時にその生涯の足跡でも察せられるように、かれは物事を芸術的直感で結論がさとれる体質でなく、キリで揉みこむような理詰めの追究のあげくに何らかの結論を得るにいたる体質であることを、この二十歳のときの日記で察することができる。
 風采はそういう彼の頭脳的個性に似つかわしい。背は五尺に満たず、月足らずのねずみの子を思わせる容貌と、後年肺結核に冒されるるい弱な筋骨をもち、たとえば法然や道元から連想されるある種の豊かさという印象からおよそ遠かった。
 なぜ筆者が、つまりこの稿で清沢満之の史的位置を紹介せねばならぬ筆者が、なぜこのような資質論にふれるかといえば、はたして哲学が哲学的思考をつきつめたあげくに宗教になりうるかということを、ふと思ったからである。宗教には宗教的直感力を必要とする、と普通考えられる。清沢は生涯そういうものを媒体とせず、求道的姿勢をもった右のような哲学的資質と思弁をもって宗教に肉迫しようとした。われわれはそのめずらしい実験を、清沢の生涯で持つ。
 かれは、俗世の縁のために宗教人にならざるをえなかった。それを苦痛とした、という告白はかれにはない。むしろ大学を卒業するとき周囲の者のほうがかれに同情した。加藤秀一はのちに「徳永(清沢の旧姓)があのまま哲学を続けていかれたなら、きっと世界的な哲学者になっておられたであろう」とかたっている。

 周囲の者は、清沢が身を置くべき京都の東本願寺が、青年理想を託すべき存在でないことを知っていたにちがいない。本願寺についてはさまざまな醜聞が世間に聞えており、停頓と没理想と堕落の巣窟のようなものだということを、かれの学問の周囲の者たちが知っていたことはたしかである。
 清沢は、給費をうけたままで卒業ご、京都にゆくことをうやむやにすることもできたかもしれない。しかしかれは、
「人は恩義を思はざるべからず」
という、その儒教的倫理観による手きびしい意志力で自分の方向を強引に定着し去っている。「身は俗家に生れ、縁ありて真宗の寺門に入り、本山」の教育を受けて今日に至りたるもの。この点に於て予は篤く本山の恩を思ひ、之れが報恩の道を尽さざるべからず」−−−要するに、かれの場合、仏門入りは、武士道的報恩精神によるもので、宗教的契機によるものではない。
 京都では、本願寺が変則的に府から委託経営されていた京都尋常中学の校長になった。明治二十一年、二十六歳である。
 俸給は百円で、これほどの高額をとっている者は京都でもかぞえるほどしかなかった。ここでの清沢は、鼻下に口髭を貯え、フロックコートを着用し、手にステッキを持ち、外出には俥を用い、本願寺僧とはいえ、ただの高級官員とかわらない。  が、就任後ほどなく清沢の内面に変化がおこった。哲学者よりもより宗教家であろうと決心した・とのため就任後2カ月で洋服と俥を廃し、麻の黒袈裟に木履という姿で通勤し、京の人々を驚かせた。彼にはそういう求道的な実験精神があり、中世の修行僧のような姿をとることによって自分を修行僧として実験してみようとした。というよりまだ多分に哲学者だったかれは、小ソクラテス学派の実践主義に学ぼうとのであおう。かれは頭を剃りあげて青道心になり、喫煙、肉食をやめ、妻子を遠ざけ、朝夕に三部経を看経した。この間、かれの書簡がある、「世界に実験程面白きことは無之哉と存候」。ということは、かれはあくまでも哲学者で、宗教的契機によることなくかれのいう「実験」によって宗教に近づこうとした。かれはついに行者生活をあこがれ、塩を断ち、煮炊きをやめ、そば粉に水をまぜたものを3食摂った。
 この結果、得た思想が、かれの思想人としての立場を決定した「宗教的哲学骸骨」で、知的作業として能うかぎり宗教に肉迫している。哲学を借りて表現された宗教の書といってよく、このなかには、後年、西田幾多郎によって展開された「多と一との矛盾的自己同一」の明確な原型をみることができる。
 が、なおこの書は、この書によって安心を得ることのできる宗教そのものの書ではなく、著者自身、後年、「人の思想はたいてい一定の経路を踏むものとみえて、始めは宗教を学問的に総合してみようなどの考へのおこるもので、自分の『骸骨』などもその産物の一例である。まことに危険のときである」といっている。この間、かれは現実の念仏者を訪ねては聞法した。
「私はなかなかお念仏が唱えられませんが、どうすればあなたのようにお念仏がとなえられますか」とかれがある念仏者にたずねると、その念仏者は何もいわずにただ念仏を唱えていた。その機微はもはや哲学の世界ではない。そういう機微のなかにある他力的世界こそ親鸞の安心であると知り始めたなは、この「骸骨」のあとであったろう。そのころからかれは自分の自力的苦行つまり「実験」が、あやまりであったことに気づく。

 かれは親鸞を知ろうとして白熱的な探求で近づくのだが、その方法は、数百年、本願寺が宗乗として積みかさねてきた勧学寮の宗学にたよろうとせず、むしろ黙殺し、むしろ西洋哲学にたよった。真宗的信仰習慣をも黙殺した。たとえば田舎では説教僧が地獄極楽を説いている。浄土真宗を信ずれば死後そこへゆくといっている。しかしかれが到達しえた「親鸞」によれば、「来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、ここに陳べることはできぬ」というものであり、「地獄極楽の有無、霊魂の滅否は無用の論題也」というものであった。
 親鸞は、本願寺が宗祖としている人物である。
 しかし、親鸞は生前「私は一人も弟子をもたぬ」といい、「自分の信仰は自分一人のためのものである」といった。これは親鸞の求道的潔癖さと、親鸞思想の本質にかかわりある逆説だが、これらのなまの親鸞像を売りものにしていては、教団は成立せず、まして戦国中期以降あれほどの大膨張をとげるにはいたらなかったであろう。結局は教団が社会化するにつれて宗祖像もそれに適合せざるをえない。その教団の適合した宗学にたよらなかった清沢は、親鸞そのものを白紙で思索しようとした。その結果、かれが驚くべき発見をしたのは、親鸞もまた直覚的な見神者いったようなものでなく、かれのごとく哲学的思弁をかさねたあげく、法然的世界を知って宗教へ跳踏した人であるということであった。さらに教団的俗信を排除しつつ親鸞に肉薄するにつれて、親鸞こそむしろかれ以上に近代哲学の濃厚な受洗者であるがごとく思われてきた。在来、教団が第二義的にみて軽視してきた『歎異抄』をかれとその門人の暁烏敏ははじめて重視し、重要なことを知った。この『歎異抄』のなかで窺うことのできる親鸞の宗教的気魄と宗教的気息は、どうみても、スペンサー、ヘーゲルを通過した人であるかのごとくであり、哲学的思弁の及ぶかぎりにおいて人間と絶対を追求し、最後の一点において宗教へ質的転換をしている。  

(中略)

清沢は、その晩年に、長男、妻、次男を相次いで失い、明治三十六年六月六日に他界した。死に臨んで側近が「言い残すことなきや」と問うと、「何もない」という答えを唯一の遺言にして息をひきとった。
 かれの求道的行跡は、親鸞におけるその哲学的性格の濃い人間悪の問題や平生往生の近代的展開に重点が傾き、親鸞における宗教的生命であった、後生、念仏の面ですくなからず稀薄であった点が、後の宗学者から「清沢の阿弥陀如来は西洋近世哲学の神にすぎない」などという批判をまねいたり、知識層のみに理解されうる教説で、いわゆる門信徒大衆から孤立していた、などといわれた。しかし逆にいえば、親鸞以後清沢が出るまで数百年日本的純度の高いこの宗教が、愚民の宗教として徳川時代の知識階級にさえ無視され、明治の知識層にも一顧もあたえられなかったのは、むしろ教団が、親鸞をそういう形で売り散らした罪であるともいえる。清沢が出、清沢がこの日本人の精神的形成を、世界的規模のなかで行うにおよんで、はじめて知識人は親鸞の存在を知った。清沢の思想的嫡流の一人であり、現在東本願寺の宗立大学の学長である曾我量深氏は、「清沢が出るまでは他力信仰などはたれも問題にしていなかった。かれが出なかったならば親鸞などを日本の思想界の最高と考えることにはならなかったろう。清沢が身命を献げて戦いとった信仰は、日本の仏教史に長く残ることで、法然、親鸞以後の最も大きな事実であろう」といっているのは、単なる先師への褒辞ではない。
(参考文献 ――― 『清沢満之全集』(法蔵館)、『暁烏敏全集』、吉田久一著『清沢満之』(吉川弘文館)、西村見暁著『清沢満之先生』(法蔵館)

  (昭和40年4月)

※司馬遼太郎は他にも、「哲学と宗教の谷間で」と題し、僧侶橋本峰雄と清沢満之について語っている。この対話は、司馬遼太郎対話選集8『宗教と日本人』(文春文庫)で読むことができる。