学びのこころ掲載作品

乃木希典
Nogi maresuke

乃木希典 1
乃木希典 2
乃木希典 3乃木希典 4乃木希典 5乃木希典 6
作家名
乃木希典のぎ まれすけ
作品名
乃木大将書翰
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 本金襴緞子裂 象牙軸 三重箱入
南天棒並びに一戸兵衛識
乃木大将満三年追善会并関西遺墨展出品作
本紙寸法33.2×24cm
全体寸法50.6×118.3cm
註釈

明治の日本人が持っていた倫理観、それは天皇の臣民として、国家に忠義を尽くすことであり、天皇の臣民として誠実に実直に生きることであった。明治という時代は、時代がそれを求め、人々もそれを求めた。乃木希典の生涯はそういう時代精神の象徴であり、乃木夫妻の殉死は、そういう時代精神の終わりを告げるものであった。

君主が亡くなり、臣下が後を追って自死することを殉死という。明治天皇大葬の夜、霊轜出門の弔砲とどろくなか、乃木希典は妻とともに自刃する。乃木夫妻の殉死は、明治を生きた様々な人々のこころを激しく揺さぶった。誰もが不意を突かれ、唖然とした。また、批判する者もいれば嫌悪する者もいた。しかし、多くの日本人は、深い感銘のうちに涙を流した。
今、私たちの時代から、乃木希典という人物を理解することは難しい。私たちは天皇の臣下でもなければ、殉死という麗句に隠された残忍さを肯定することはできない。もっとも、封建思想の残滓であろうが、軍国主義の象徴であろうが、そんなことはどうでもよい。彼が無能な愚将であったかどうかなど、それこそ愚の骨頂というものだ。大事なことは、明治という時代がどういう精神の時代であったか、私たちの時代から顧みて感じることではないか。

(なぜ今さら乃木希典なの?)
今回、《学びのこころ》に敢えて乃木希典の書翰を取り上げたのは、始めに乃木希典に興味があったからではありません。たまたま、この乃木希典の書翰を入手したからです。たまたまというのは、第一に、この書翰には、南天棒の添え書きがあったこと、第二に、その書翰掛け軸の拵(こしら)えが実によくしてあったからです。乃木希典は死んで神にまで祭り上げられた人物なので贋物がいっぱいあります。南天棒の添え書きがあったということは、(さらに一戸兵衛の添え書きまであって)それは、間違いなく乃木希典の真筆であるということを示しています。そして、掛け軸というものは、それを仕立てた者の、あるいはそれを大事にしてきた者の思いがそこに宿るものです。この掛け軸は、それが、痛々しいほど感じらるのです。この場合、その書翰の内容など問題ではありません。ただ、乃木希典の直筆であるということがありがたい。そういう思いの伝わる掛け軸なのです。私は、乃木希典というよりも、乃木希典を愛して、このような掛け軸を仕立てた、明治の人々に興味を持ったと言うべきなのかもしれません。

ここに南天棒の回顧録(禅に生きる傑僧 南天棒)から、乃木希典に触れた部分を紹介しておきます。

三九 乃木も一剣の前にひれ伏す
一八八七年(明治二十年)の雨安居には、道林寺で、「四部録」の提唱をやった。大衆は五十人ばかり、居士大姉は、七、八十人だった。坐るところがないから、みな墓場で坐った。 八月十五日のことだったが、牛込薬王寺前の児玉邸から使いがきて、今日の午後、ワシにきてくれとのことだから、「よしよし、行くと言え」と使者をかえし、放参後の三時半すぎてから、児玉のところへでかけていった。すると座敷には主人の児玉と、先日一度道林寺へきた乃木とがおる。日常挨拶がすむと児玉が、「老師、今日は、わざわざお呼び立てしてすみません。じつは道林寺のほうへうかがうべきだ、あまりお座敷が広過ぎ、なにもかも人目につき、どうも具合がわるいから、ついご足労わずらわしたが、この乃木さんが少々、老師にお尋ねしたいことがあるというから、どうか、ご垂誡を願ふ」との口上だ。そこでワシが、乃木に向かって、「さあさあ、なんなりともお尋ねなさい」というと、乃木は、ていねいに、「よろしく願います」と、いう。この人は厳格で、一挙手一投足に一糸みだれずというところがあった。乃木は、やがて腰の剣をとって、「拙者は武人ですから、なにとぞ剣をもって御教示願います」というて剣をワシと自身の膝と膝の間に、眼々双対の真中においた。そこでワシは、「この南天棒は仏者だ。いわゆる出家児だ。剣のことは無用。則今、武人はいかにこの剣を使用するか。さあ使い得よ。みせん」と、いうな斯木は、合掌礼拝して、「わかりました。自今、老子の室に入って、斯道を研鑽せん」と、ちかった。諸氏、乃木に代わって一句作麼生、洟。ワシは、「いつでも来るがよい」と無字の公案を乃木にあたえた。そのとき、児玉は泰然自若と座敷に端坐して、この商量をみて、髯一本も動かさなんだ。この静の人児玉と、剣を振った動のワシとを、目前にみて諦得した乃木は、その晩から雨の日も風の日も道林寺の道場へ通いつめ、大死一番の勝因を得た。

六九、乃木将軍の時計
ワシが、ヤソの牧師に垂誡をあたえた翌日だから、十月二十日か。東京行きの支度も万端ととのえて、もう出かけるかりというとき、乃木将軍が、海清寺の玄関をとうた。将軍は元来質素であるうえに、ことにワシに対するときは、いつも勲章などは付けておらんので、この日もなにか略章一つで、みずぼらしいカーキ色の軍服姿で、玄関に立ったものだから、誰もこれが旅順攻撃の総大将の乃木将軍とは気づかん。かえって、門外に待っておる随行員のほうが、はるかに立派なくらいだったので、小僧らも、またどこかの軍人が来たぐらいに思い、いつも軍人が沢山来るから、別に出迎えもしなかった。ところが門下のトウ隠がワシの東京行きの見送りをするために来て追ったので、彼れが取り次に出て、乃木さんということが分かったのだ。将軍は、ワシが丈夫なのを大層喜んでくれた。いつもワシは将軍のところの酒を飲むから、今日は一つ灘の生一本をふるまおうというので、特撰を抜いて一杯やった。将軍も喜んで飲みながら、ワシが「大演習の詩趣は、どうだな」と尋ねると、将軍は「これは西伯亜途上でやった旧作だが」と、ポケットから鉛筆をとり出して、半紙に記して、「千里の平原、草、雲に接す。大兵用うべし軍行るべし。英雄かつてこれ功名の地。ただ見る綿羊野馬の群」と。やがて将軍は辞したが、日露の戦死者の碑に一々礼をして立ち去った。将軍は公私の道に正しい人であったから、公務をおわらねば私用は絶対にやらなかった。この日も和泉の大演習後に、ワシを訪ねたのだった。そのときの将軍の土産が、また変わっておる。内ポケットから大きな時計を出して、「これは日露戦争の折、はだ身はなさず持っていたもので、大切な部下を多く殺した。まことに申し訳ない。この時計には、その尊い命が一個一個宿っておる。どうぞ部下の冥福を、老師祈ってやってください」と、渡された。その後、ワシは毎朝、この時計を仏壇に供えて、コチコチという音を聞きつつ、読径を続けている。いつまでも海清時に保管されるだろう。

七一、乃木大将夫妻の殉死
一九一二年(明治45年)七月三十日、いま思い出すも、ハヤ涙の種だが、明治大帝は崩御された。御霊柩が京都桃山におさまる九月十四日、ワシは奉送のために参列しておると、号外号外の声がする。なにごとかと侍者に買わせて見ると、乃木大将の殉死だ。ワシも一度はおどろいたが、よくやった、よくやったと、心底から声がうなった。乃木だ、乃木だ。山岡もいたら同心だ、と思わず涙がこぼれた。じきに乃木の霊前に電報を打った。「乃木大将ご夫妻、殉死とは、さすが乃木大将閣下なり。この南天棒も、涙ながらに、万歳を唱う。万歳、万歳」ワシが声をのんで万歳をとなえた意は、将軍のほかに知るものはない。そもそも乃木の殉死を議論するのは末の末だ。乃木大将の葬儀は九月十八日、青山斎場で行われ、ワシは浅草の海禅寺の秀嶽と、道林寺の亮郷とをつれて行き、棺前で、「三帰戒」をさずけ、一句を挙揚した。「趙州の露刃剣。寒霜光り焔焔。わずかにこれを如何んと擬すれば。身を分かって両段となる」別別「乃木の両霊に生死なく。南天の一棒、かくすに処なし。喝」と。告別式から墓所に到着するまで七時間、みな立ちどうしのため、あちらの木の根、こちらの石の上に腰をおろす者も出て来た。ワシらは『舎利礼文』を読み続けておると、係の者が、「まだ理棺までには時間がありますから、その間、休憩所でお休みになって、お茶でもお飲み下さい」と、いうたので、ワシは大喝して、「馬鹿ッ。今日はワシは乃木を葬りに来たのだ、休息に来たのではない。休息に来た奴は勝手に休め、ワシは乃木を送ってしまうまでは休まん」と、いい、親族知己らが一握の土を入れ、ワシも一塊の土をはなむけた。これ師弟が色身の幽冥異境の一刹那だ。全く理棺をおわったのは夜の十時。ワシは朝の十時から、一度も便もたれねば、石にももたれなんだが、みんなの者は大分、へこたれたが気の毒だった。

補記
先に記したように、乃木希典という人を捉え理解することは難しい。現在の乃木観は司馬遼太郎の『殉死』に負うところが大きいといわれる。私は、司馬遼太郎の『殉死』を読み、福田和也の『乃木希典』を読み、戸川幸夫の『人間 乃木希典』を読み、森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』を読み、芥川龍之介の『将軍』を読み、夏目漱石の『こころ』を読んでみた。謂わば私の嗜好であり独断的ではあるけども、芥川龍之介の『将軍』を読めば乃木希典という人物がイメージでき、夏目漱石の『こころ』を読めば、私が一番関心を向けた、明治の時代精神というものを感じることができるのではないかと思う。

私は、最初に『こころ』を読んで、小説の骨子である、〈K〉の自殺に納得がいかなかった。それは〈K〉の自殺が作り物に思え、自殺に切実さを感じなったからだ。そして、同時にそのことを罪悪として背負い、自殺した〈私=先生〉にも納得がいかなかった。しかし、今回、乃木希典を意識しながら読み直してみて、この小説がちがったものに見えてきた。小説は、承知のように〈私=先生〉に、《 私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。》と〈私=書生〉に自分の過去を遺書という形で告白させる。

そしてその告白は次のように結ばれる。

《記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山(わたなべかざん)は邯鄲という画を描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。》

この小説がちがったもの、というのは、《何千万といる日本人のうちで、ただあなただけ》という《あなた》、《あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといった》、《あなた》は、明治という時代を生きた日本人一人一人である。そして、〈K〉の自殺という〈私=先生〉の背負った罪が、乃木希典の「連隊旗を喪失」であり、乃木希典という人も、《あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといった》、一人の明治を生きた日本人ではないのか。そして、《その時(天皇の崩御が)私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました》という、明治の精神なるものが、明治の日本人が持っていた「倫理観」であり、明治の日本人の持っていた価値に違いない。こう、この小説を眺めれば、〈K〉の自殺も、〈私=先生〉の自殺も理解できなくはないのです。そして、《私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。》という、〈私=先生〉の言葉は、漱石の乃木観として読めば、《その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました》にも関わらず、乃木の殉死を理解することは漱石にはできないというふうに読むことができる。私は、なにも《こころ》論を書こうというのではないのです。この小説を「知識人の内部の葛藤を描いたドラマ」として読むと、どうしてもこの小説が納得いかない、作り物の嘘くささを感じてしまうのです。こう、読んではどうでしょう。この小説の〈私=先生〉も、〈私=書生〉も、漱石自身であり、明治を生きた日本人一人一人の残像である。そして、漱石は、漱石の内なる乃木希典なるものを、氷解させるがためにこの小説を書いたのだと。

【原文】
尊詠有調唯 尊跡拝誦唯 参上可仕存候処 来客中ニ付御免実ハ 先夜より出張ノ用向 出来候故愚妻ノミ 差出可申存候いつれ 後刻参上可申上候 頓首 希典 荘原様

【訓読】
尊詠、調べあり。唯参上仕つるべく存じ候ふ処、来客中に付き御免。実は先夜より出張の用向き出来候ふ故、愚妻のみ差し出し申すべく存ふ候ふ。いづれ後刻参上申し上ぐべく候ふ。頓首 希典 荘原様

【訳文】
お詠みになったものは、調子が整っております。すぐ参上申し上げようと思っておりましたが、来客中でありましたので失礼しました。本当は昨夜から出張の用事ができましたので、愚妻のみおうかがいさせようと思っております。いずれ後ほど参上しようと思っております。頓首 希典 荘原様

※荘原というのは、乃木希典全集より、フルネームは荘原好一ではないかと思います。

一戸兵衛((いちのへ ひょうえ)
安政2年(1855)~昭和6年(1931)

弘前藩士一戸範貞の長男として生まれる。陸軍大将。旅順攻略戦で勇名を馳せる。退役後、学習院院長、明治神宮宮司、帝国在郷軍人会長を務める。乃木希典の信頼厚い部下であった。

鄧州全忠(南天棒)
天保10年(1839)~大正14年(1925)
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