伊達政宗
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作家名
伊達政宗 だて まさむね
作品名
岩井丹波守宛自筆書状(青木文書)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 紙裂 合箱
『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』所収
本紙寸法46×28.6
全体寸法(胴幅)48.2×114p
註釈

【翻刻文】
我等罷下事
方々ヨリ早々下向候へと
承候。利家も其分ニ
候へとも御意ニ候間、
延引仕候。大坂より
左右事候者、可申
承候。我等事
御前ニ而是非之
御沙汰なく候処ニ
爰元ニハ遍心候と
ひかへ申事結句
もとめたる機遣之
情ニ世上体色
沙汰可有御座候へハ
任御意候。今朝
御見廻可申候へ共
難去成候条
不参由頼申候。恐惶謹言

 八月十一日 政宗(花押)

 捻封    羽越前
いハ□□殿へ  政宗

  (御宿所) 
  尚々爰元ニ滞
  留申事二日とも
  三日とも相延候へハ
  いかゝと存候。左之通
  とも悪事ハ
  被仰候間敷候間
  唯々任御意候。
    かしく

【読み下し文】
我ら罷り下る事
方々より早々下向候へと
承り候。利家も其分ニ
候へども、御意に候ふ間、
延引仕り候。大坂より
左右の事候はば、申し承るべく候ふ。
我ら事、御前にて是非の
御沙汰なく候ふ処に、
爰元には遍心候ふとひかへ申す事、結句
もとめたる機遣の情に世上体色沙汰あるべく御座候へば
御意に任せ候ふ。今朝
御見廻申すべく候へども
去りがたくなり候ふ条、
不参の由、頼み申し候ふ。恐惶謹言

 八月十一日 政宗(花押)

 (捻封)    羽越前

(岩井丹波守)殿へ  政宗
  御宿所
  尚々爰元に滞
  留申す事、二日とも
  三日とも相延べ候へば
  いかがと存じ候ふ。左の通り
  とも悪しき事は
  仰され候ふ間敷候ふ間、
  唯々御意に任せ候ふ。
    かしく

【現代語訳】
わたしが下向いたします事については、あちこちより早く下向せよと承っております。利家もそのようでございますけれども、御意がございますので、延期しております。大坂より何かの御用事がございましたら承ります。わたしどものことは、御前にては善悪の 御沙汰がありませんので、こちらでは心許なくひかえ申しておりまして、結局 考えたように世間の取り扱いもあるでしょうから御意にお任せいたします。今朝がた 御見廻申しあげようと思いましたが、よんどころなきことがあり、参上できませんでしたこと、よろしくお願いいたします。恐惶謹言
 八月十一日 政宗(花押)
 (捻封)    羽越前
(岩井丹波守)殿へ  政宗
  御宿所
尚々、こちらに滞在する事が、二日にも三日にも延びてしまいましたらいかがかと思います。左の通りではありますが、悪い事も仰せにはならないと思いますので、唯々御意にお任せいたします。
かしく

【解説】
政宗が「羽越前」(羽柴越前守)を名乗ったのは、豊臣秀吉に称することを許された天正19年(1591)から慶長12年(1607)の間である。また、文中に前田利家の名があり、この書状が書かれたのは、利家没年の慶長4年(1599)以前となる。さらに宛先の岩井丹波守は、秀次事件(1595)における政宗への上使の一人であり、その文面からも、秀次事件に連座して秀吉の不興をかった頃のものであることが推察される。以上の根拠と花押の形状より、文禄4年(1595)8月11日の書状と確定して間違いないであろう。尚、この書状は『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』(P57)に「青木文書(東京大学史料編纂所影写本)」として所収されており、この書状がその原本(真筆)である。