D-222 大村益次郎
Oomura Masujirou

 大村益次郎 1
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作家名
D-222 大村益次郎 おおむら ますじろう
作品名
楠公碑文
価格
1,200,000円
作品詳細
掛け軸 絖本水墨 緞子裂 象牙軸 野村素介箱
本紙寸法36.7×135
全体寸法49.5(胴巾)×209㎝
作家略歴

大村益次郎
文政8年(1825)or文政7年~明治 2年(1869)

周防国(現在の山口県の属する)鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)に村医者村田孝益の長男として生まれる。諱は永敏、益次郎。通称は、蔵六、良庵(または亮庵)。初め梅田幽斎に学ぶ。天保14年(1843)、豊後国(現在の大分県の属する)日田の広瀬淡窓の咸宜園に入塾。弘化 3年(1846) 大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、塾頭となる。嘉永6年(1853)、宇和島藩に出仕。蘭学の教授を行うとともに藩政に参画。安政 4年(1857)、出仕し幕府の講武所教授となる。万延元年(1860)、江戸において長州藩雇士となる。文久 3年(1863)、萩に帰国し、博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも兵学を教えた。慶応元年(1865)、大村益次郎と改名。慶応 2年(1866)、第2次長州征討に石州口軍事参謀として参加、浜田城を陥落させる。その後、新政府に出仕し、明治2年(1869)7月兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死去。

野村素介
天保13年(1842)~昭和2年(1927)

周防国(現在の山口県の属する)吉敷郡長野村(現在の山口市大内長野)に長州藩士有地留之助の次男として生まれる。幼名、範輔。字、絢夫。号、右仲、素軒。 はじめ、藩校明倫館、江戸の長州藩上屋敷内の有備館で学び、さらに儒学者塩谷宕陰に漢籍、経書、歴史を学び。小島成斎に書道を学ぶ。文久3年(1863)、長州藩士野村正名の養子となる。文久2年(1862)、帰国して明倫館舎長となる。幕末に際し、尊皇攘夷を唱え国事に奔走する。明治元年(1968)、山口藩参政兼公議人兼軍政主事となり、翌年に権大参事となる。明治4年(1871)、ヨーロッパ諸国を視察。帰国後、茨城県知事、文部大丞、教部大丞、文部大書記官、元老院大書記官、元老院議官などを歴任。明治23年(1890)、貴族院議員、錦鷄間祇侯となる。正二位勲一等 男爵。

コンディション他

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復 王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門 盛矣哉至 湊川楠公碑文為嘱書 大村永敏

大村益次郎の稀少な直筆、かつ優品。
表具は岡墨光堂で、すこぶる良い仕立て。
本紙、若干のシミあり。

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