大村益次郎 Oomura Masujirou

文政8年(1825)or文政7年~明治 2年(1869)

周防国(現在の山口県の属する)鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)に村医者村田孝益の長男として生まれる。諱は永敏、益次郎。通称は、蔵六、良庵(または亮庵)。初め梅田幽斎に学ぶ。天保14年(1843)、豊後国(現在の大分県の属する)日田の広瀬淡窓の咸宜園に入塾。弘化 3年(1846) 大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、塾頭となる。嘉永6年(1853)、宇和島藩に出仕。蘭学の教授を行うとともに藩政に参画。安政 4年(1857)、出仕し幕府の講武所教授となる。万延元年(1860)、江戸において長州藩雇士となる。文久 3年(1863)、萩に帰国し、博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも兵学を教えた。慶応元年(1865)、大村益次郎と改名。慶応 2年(1866)、第2次長州征討に石州口軍事参謀として参加、浜田城を陥落させる。その後、新政府に出仕し、明治2年(1869)7月兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死去。

大村益次郎 楠公碑文
楠公碑文

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