D-208 大村益次郎 橋本雅邦
Oomura Masujirou, Hashimoto Gahou

 大村益次郎 橋本雅邦 1
 大村益次郎 橋本雅邦 2
 大村益次郎 橋本雅邦 3
 大村益次郎 橋本雅邦 4
 大村益次郎 橋本雅邦 5
 大村益次郎 橋本雅邦 6
作家名
D-208 大村益次郎 橋本雅邦 おおむら ますじろう、はしもと がほう
作品名
詩(大村益次郎)、山水(橋本雅邦)合表装
価格
250,000円
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 金襴緞子裂 象牙軸 合箱
(大村益次郎 橋本雅邦)本紙寸法11.5×23.5
(橋本雅邦)本紙寸法20.8×26.3
全体寸法39×139.5㎝
作家略歴

大村益次郎
文政8年(1825)or文政7年~明治 2年(1869)

周防国(現在の山口県の属する)鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)に村医者村田孝益の長男として生まれる。諱は永敏、益次郎。通称は、蔵六、良庵(または亮庵)。初め梅田幽斎に学ぶ。天保14年(1843)、豊後国(現在の大分県の属する)日田の広瀬淡窓の咸宜園に入塾。弘化 3年(1846) 大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、塾頭となる。嘉永6年(1853)、宇和島藩に出仕。蘭学の教授を行うとともに藩政に参画。安政 4年(1857)、出仕し幕府の講武所教授となる。万延元年(1860)、江戸において長州藩雇士となる。文久 3年(1863)、萩に帰国し、博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも兵学を教えた。慶応元年(1865)、大村益次郎 橋本雅邦と改名。慶応 2年(1866)、第2次長州征討に石州口軍事参謀として参加、浜田城を陥落させる。その後、新政府に出仕し、明治2年(1869)7月兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死去。

橋本雅邦
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コンディション他

【原文】
呉史越人遇浪間
黄昏月出恰如彎
孤鯨岩吧高低涌
能鷺煙遮大小湾
苦歳凶言皆一様
評時勢話是千般
相尋相対絶弓感
不識櫓声波戸辺
 蔵六菴主人

【訓読】
呉史越人、浪間に遇(あ)う。
黄昏、月出(い)でて恰(あた)かも彎のごとし。
孤鯨岩吧、高低に涌(わ)き、
能鷺、煙遮ぎる、大小の湾。
苦歳の凶言は、皆一様(みないちよう)。
時勢を評する話は、是千般(これせんぱん)。
相(あい)尋ね、相(あい)対して、絶弓の感。
識(し)らず、櫓声波戸の辺。
 蔵六菴主人

【語釈】
呉史越人―呉の人と越の人。「呉越同舟」というように、呉と越は歴代抗争を繰り返した。
彎―彎曲した弓。
孤鯨岩吧―鯨のように巨大な岩。吧は語末の助字。
絶弓感―弓を折り絶つような気持ちか。
波戸―はとば。埠頭。

【訳文】
不倶戴天の敵である呉の人と越の人が浪間で出あった。
たそがれに月も出て、その姿はあたかも彎のように曲がっている。
一つの巨大な岩は、波間に高く低くわきおこり、
鷺が水煙の間を飛び来る、大小の湾内。
つらい歳月の愚痴は、どれも同じようなものだが、
これからの時勢の噂話は、みなそれぞれ違っている。
誰に聞いても、誰に向かっても、ただやるかたない思いがつのるばかりだ。
波止場の船の櫓の音にも気が付かなかったよ。

大村益次郎の遺墨は稀少。
本紙に多少ヤケあり。

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