久松真一
Hisamatsu Shinichi

学びのこころ掲載作品

久松真一1
久松真一2
久松真一1久松真一2
久松真一2久松真一2
久松真一2
作家名
久松真一 ひさまつ しんいち
作品名
独脱無依
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 共箱 二重箱
本紙寸法22.7×109
全体寸法33.2(胴幅)×162㎝
註釈

独脱無依について

久松真一は、禅を基底にして、自らの思想を展開した思想家であるが、一つの宗学、一つの宗義に拘泥する思想家では当然なかった。というよりも、本来の禅というものが、以下に紹介する『臨済禅の解明』に述べられるように、《仏縛祖縛をも脱し、悟りにさえも拘わらない大解脱人となることである 》というのであるから、それは当然のことである。 また、《悟りにさえも拘わらない大解脱人》とは、自己が自己から解放されて、「本来の自己」が現れた絶対主体的な「真の自己」のことであり、それを臨済は、「独脱無依」と言ったのである。

臨済禅の解明

宗教の創造的な生きた共通性は、既成諸宗教の単なる帰納的共通性ではなくして、全体的人間の深い探求からの批判的共通性でなければなりません。然らざれば、人間における宗教の存在理由も、既成宗教の正邪、発達未発達も、また宗教の将来あるべき形態も、客観妥当的にきめることはできません。
私はここに、こういうことを念頭に置きながら、臨済禅の簡単な解明を試みたいと思います。臨済禅は、曹洞禅と同じく第九世紀の初めに、臨済義玄禅師によって開かれた禅の一家であります。
臨済禅は、禅で古来「不立文字教外別伝」と申しておりますように、既成の経典の所説を絶対的な真理としてドグマ的に信じて、それを所依とするような経典絶対主義ではなくして、既成経典成立の根源としての妙心に還ろうとするものであります。禅は、また「直指人心見性成仏」と申しまするように、他者的な神や仏を信じたり、対象的に体験したりするようなTheistic Religionでもなく、あるいは自己を空しうして他者的な神や仏や自然に合一するようなMystical Religionでもありません。臨済禅は、「大疑の下に大悟あり」と申しまして、人間世界の現実の在り方を、単に対象的にではなくして、疑われるものが疑うものであるというふうに主体的に疑って、主体的限界境位 ― これを禅では大疑団という ― に達し、それを突破して、人間の真のあり方を悟り、禅でいう「本来の面目」に目覚め、その目覚めた人間として現実に妙用(はたら)くHumanistic Religionであります。
臨済禅では、かように目覚めた人間を「真の自己」といい、臨済はこれを「真人」と呼称し、この真人の外に真の仏はないと申しております。では、現実的人間の主体的限界境位としての大疑団とはいかなるものか。それは生と死、即ち有と無との葛藤と、善と悪、すなわち価値と反価値との葛藤とが相からみあって、永遠に脱せられない現実的人間の宿命的なあり方でもあります。また、大疑団が破れるとは、人間の宿命的なあり方から脱して、臨済が「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」というように、仏縛祖縛をも脱し、悟りにさえも拘わらない大解脱人となることである。
臨済はこれを「独脱無依の道人」とも「無相の自己」ともいっております。現在も行なわれております臨済禅の修行としての公案の工夫というのは、この大疑団を起こして、それを破ることにほかなりません。臨済禅では、この大疑団が破れて大悟の人となることによって、人間は一面、生死を超え善悪を超えていわゆる涅槃静寂の大解脱体となるとともに、他面その主体から起こる慈悲の「大機大用」をもって現実世界に妙用(はたら)き出るのである。禅では前者を掃蕩門といい、後者を建立門と申します。仏教においては、ややもすると涅槃静寂に安住して、大機大用を撥無する場合がありますが、臨済禅 では、古来これを黙照禅、あるいは死人禅と喝破し、特に大機大用を強調するものであります。この大機大用は、現実世界にいかにあらわれるかと申しますと、一は現実的人間を悟りへ誘導することと、他は悟りに基づいて、現実世界に新しき意味を与え、かつ、真実の世界を形成することであります。従来は、他の仏教と同様に、禅もややもすると前者に偏し、後者を閑却し勝ちでありましたが、それでは結局現実を放棄することになり、第二の死人禅に堕するほかはありません。
かくて臨済禅は、この大機大用をもって人間に必然的な究竟解脱面とに参与することによって全体的人間に対して二重の役割を演ずるものであります。 臨済が「心法は形無くして十方に通貫し、目前に現用す」と申しましたのは、かかる意味でなければなりますまい。

(絶対的主体道・臨済禅の解明)

Theistic Religion…有神論の宗教
Mystical Religion…神秘主義的な宗教
Humanistic Religion―人間の宗教

久松真一のこの『臨済禅の解明』は、冒頭で、《宗教の創造的な生きた共通性は、既成諸宗教の単なる帰納的共通性ではなくして、全体的人間の深い探求からの批判的共通性でなければなりません。然らざれば、人間における宗教の存在理由も、既成宗教の正邪、発達未発達も、また宗教の将来あるべき形態も、客観妥当的にきめることはできません。》と述べ、さらに続けて、《私はここに、こういうことを念頭に置きながら、臨済禅の簡単な解明を試みたいと思います。》と述べてから書き始めている。ここに、久松真一の現在の仏教のあり方への批判があることは、容易に察することができるであろう。 以下、『仏教はこれでよいのか』は、現在の仏教への提言として書かれたものである。内容は痛烈な批判でもあるが、これは、「本来の面目」に目覚めた、久松真一の面目躍如たる一文である。

仏教はこれでよいのか

私は仏教徒であるがゆえに仏教にこだわらない。仏や祖師にさえこだわったら仏教ではない。仏教徒は古い殻の脱皮と、新しい建設とのために、自他を常に批判する自由を保任しておらなければならない。
仏教はこれでよいかとしばしば語られるが、現在の仏教のあり方を批判することになると、ぼろ畳みをたたくようなもので、ほこりは何ぼうでも出る。たたいて浄らかになるのもあるが、たたくと崩れてしまうのもある。仏教は現状では、たたかなくともすでに崩れてしまっておるのではないか。しかし住めば都で、崩れておっても崩れておることに気づかず、気がついても手のつけようもなく、そうかといって、一切の惰性的障害を排除して造りなおすというほどの建設的情熱もなくまた名案もなく、まあこのままにして置くより仕方がない、というのが現代仏教の実情であろう。しかしそれでよいのか。
崩れて役に立たなくなったら、古畳はすっぱりすてて、なぜ敢然と新しく造りかえようとはしないのか。こういうことをいうと憤慨する仏教徒もあるかも知れない。しかし、私も仏教徒の一人であるが、現代仏教に対しては、いかに批判しても批判し過ぎるということはなく、むしろ足らざるを是れ倶れているほどで、今や仏教を活かすために、かえって徹底的に殺人剣を揮うべきである。
現代の仏教は、大小さまざまな悪循環の渦にまきこまれて、顛落の一途をたどっている。その渦の最も大きなものは、時代的に近世の延長線上にある現代が、宗教、したがって仏教にも関心が極めて少ない時代であることと、仏教がかような時代の中に仏教的関心を喚起して来るだけの力を持たないこととが、相たすけて起こしている悪循環である。この渦を中心にして周辺に多くの渦ができ、ますます渦を大きく深くしつつあるのである。 周辺には、仏教が現代に宗教的関心を喚び起こすことができないために、浄財が集まらない、集まらないと寺院の経営が立ちゆかぬ、立たなくなると寺院は仏教的に使用されなくなり、僧侶も仏教的にはたらけなくなり、仏教としての役目が果たせなくなる、そうなると現代はますます仏教と縁遠くなってしまうほかない、というような渦ができる。日本に幾十万の寺院があり、幾百万の寺族があるが、その幾パーセントが仏教的役目を果たしているだろうか。しかも各宗教団は果たしてこの渦を止める万策を講じているであろうか。各宗教団は、いかにして現代に仏教的関心を喚び起こすかについての根本問題を棚上げして、法要等に事よせて募財を強行し、それによって経済面をカバーしようとしているが、これは一時的な糊塗に過ぎない。それにしても、教団は何をもってこの財施に酬えて来たか、また将来に酬えようとするであろうか。もしも募財の多くが、従来往々あったように個人の私腹を肥やすようなことになったり、一時の儀式、饗応等に消耗されたりするようならば、募財は仏教の本意にも反し、また社会的にも罪悪といわざるを得ない。今日、財力は何よりも優先的に、仏教を本質的に建て直すことに最も必要な研究機関と教育機関の充実と、布教拡充とに注ぎこまれるべきである。しかし、研究の問題の立て方、教育の仕方、布教の内容は、従来のような理念で、それを強化しても、それは時代後れといわねばならない。研究も教育も布教も、現代から反省させられるとともにただ現代に追随するのではなくして、かえって積極的に現代の盲点を看破し、現代の悩みを救うような前進的建設的なものでなければならないであろう。
結局、活かす道は、人を活かす道にほかならないが、それは、現状における、のみならず人間性における仏教の不可欠な存在理由を明確に樹立し、その認識に立って、仏教教団が総力を挙げてその存在理由を実現するほかにない。しかし仏教の現状はこれとはるかに遠い。仏教教団の宗政はこれでよいのか、僧堂、宗学院、大学等の宗門教育機関はこれでよいのか、寺院はこれでよいのか、長老から若僧に至るまで僧侶はこれでよいのか、檀信徒はこれでよいのか、教義教理はこれでよいのか、布教の内容ならびに仕方はこれでよいのかと、重ねて問いたい。
しかし、私は、逆に人間はこれでよいのか、家庭はこれでよいのか、社会はこれでよいのか、国家はこれでよいのか、国際連合はこれでよいのか、世界はこれでよいのか、と反問もしたい。

(『久松真一著作集8』に所載、未発表草稿と思われる)

【後記】

『仏教はこれでよいのか』がいつ書かれたものか定かではないが、久松真一が没して37年を経た現在、仏教あるいは宗教といわれるものは、久松真一の生きた時代よりもさらに惨憺たる状況となって、もはや人々の関心事ではなくなってしまっている。一方、われわれは、自然環境、貧困、民族対立、宗教対立、原子力発電所、核兵器など、様々な問題を抱え、久松真一が、昭和26年1月、朝鮮戦争時の世界状況に強い危機感を抱き、京都大学の子弟たちとともに、「人類の誓い」を宣言したころよりも、さらに問題は深刻さを増して、われわれは行き詰まり、人類は危機に瀕している。そういう社会状況下のなかで、個人は個人の悩みを抱えつつも、社会的な存在として生きていかねばならない。そのときに、宗教というものは、社会に対し、個人に対し、何の知恵も働くことができないのか。私は、そうではないと思う。そもそも、法然も親鸞も日蓮も道元も、伝統宗教教団のものではないのである。私たち一人一人は、誰もが時を超えて、場所を超えて、法然にも日蓮にも道元にも、内村鑑三にも、清沢満之にも、西田幾多郎にも、鈴木大拙にも、柳宗悦にも、久松真一にも、山崎弁栄にも、言葉を通じて出会うことができるのである。また、言葉だけが宗教ではないのである。念仏だけが宗教でないのである。夏目漱石も、正岡子規も、セザンヌも、モーツアルトも、私たちの悩みを救う言葉を導いてくれるのである。また、市井の無名の人の言葉のなかにも、宗教が生きていることはあるのである。
私は、伝統宗教教団というものは、真の仏教教団としてはすでに滅んでいると思う。そう言わずとも、今の世に、本山から末寺まで、一人の出家者もいないのであるから、真の僧侶など一人もいないのである。久松真一は、信仰は宗教の命であると言う。そもそも、信仰というものは個人のものである。一人一人が、聖なる絶対者と繋がることである。先ず、本山と末寺という教団組織は解体されるべきではないか。それが解体されても、僧侶一人一人が、仏弟子であることは、一つも変わらない。先ずは、宗教教団組織に直接属する僧侶の人々は、そこに帰るべきではないか。
また、私たちだって同じことである。私たちが私たち自身を解体しようとしないかぎり、真の宗教の再生も、社会の再生もないのである。