E-269 沢庵宗彭
Takuan Souhou

 沢庵宗彭 1
 沢庵宗彭 2
 沢庵宗彭 3
作家名
E-269 沢庵宗彭 たくあん そうほう
作品名
書状
価格
250,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法55.3×32.7
全体寸法57.8(胴幅)×116.2㎝
作家略歴

沢庵宗彭
天正元年(1573)~正保2年(1646)

但馬国出石(現在の兵庫県北部)に生まれる。父、綱典は但馬国主山名祐豊の家臣。8歳の時、山名家は、羽柴秀吉に侵攻を受け滅びる。天正10年(1582)、10歳で出家し浄土宗唱念寺に入り、春翁と改名。14歳の時、出石藩主菩提寺臨済宗宗鏡寺に移り、希先西堂に師事し、名を秀喜と改める。天正19年(1591)、希先が没した後、翌文禄元年、出石藩主前野長泰の招きで大徳寺春屋宗園の弟子、薫甫宗忠が宗鏡寺住職に任じる。文禄3年(1594)、薫甫が大徳寺住持となり上京、沢庵もこれに従い大徳寺塔頭三玄院に入り、春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。28歳の時、董甫が死去し、それを機に堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学ぶ。翌慶長6年(1601)、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴に師事。慶長9年(1604)、一凍の印可を受け沢庵の号を授かる。慶長14年(1609)、大徳寺第153世住職となるが、3日で退山し、宗鏡寺に隠棲、寺の復興に尽力する。翌寛永5年(1628)、幕府の下した、後水尾天皇が大徳寺、妙心寺の僧に与えた紫衣着用の勅許無効の処置に抗議し、玉室宗珀、江月宗玩、単伝士印とともに、抗議書を所司代板倉重宗に提出。これにより、寛永6年(1629)、出羽国に配流される。(紫衣事件)寛永9年(1632)、徳川秀忠の死去により大赦令が出され、江戸に入る。徳川家光、徳川頼房、柳生宗矩らの篤い帰依を受け、徳川家光の創建した萬松山東海寺の開山となる。著書に『不動智神妙録』『臨済録抄』など。

コンディション他

【翻刻文】
  尚昨日者及深更、御誹諧
  数句出来申候。忘却候。帰興
  御体候。期参謁候。
昨日之御礼可申上之
処、臨緊申入候義、無
礼之用様ニ候間、明日にも
と存候間に、御報罷成候。
殊洛陽名物被下候。賞
翫無他候。参上之節、
万々可申上候。恐々謹言。
 十一月七日     宗彭(花押)

          雲龍院
(封)大守尊下 貴報 宗彭

【読み下し文】
  尚昨日は深更に及び、御誹諧
  数句出来申し候。忘却候。帰興
  御体候。参謁を期し候。
昨日の御礼申上ぐべくの
処、臨緊申し入れ候義、無
礼の用様ニ候ふ間、明日にも
と存じ候ふ間に、御報罷り成り候。
殊に洛陽の名物を下だされ候。賞
翫他無く候。参上の節、
万々申し上ぐべく候。恐々謹言。
 十一月七日     宗彭(花押)

          雲龍院
(封)大守尊下 貴報 宗彭

【現代語訳】
  なを昨日は深更に及びまして、誹諧が
  数句できましたが、忘れてしまいました。
  故郷に帰る喜びを詠んだものです。
  お目にかかりましたおりに申し上げます。
昨日の御礼を申し上げねばならない
処、緊急の用事がございまして、失
礼いたしておりまして、明日にも
申し上げようと存じておりましたところ、
お手紙を頂戴いたしました。
特に京都の名物をくださいまして、賞
翫いたしております。参上しましたおりに、
万々申し上げたく存じます。。恐々謹言。
 十一月七日     宗彭(花押)

          雲龍院
(封)大守尊下 貴報 宗彭

沢庵宗彭が品川東海寺の開山に請ぜられたのは寛永16年(1639)のことである。署名の「雲龍院」は東海寺の塔頭であるから、この書状は寛永16年以降、沢庵晩年の書状であろう。宛所の「太守」とは、沢庵が終生交際した出石藩主小出吉英(1587~1666)ではないか。

ウブなり、本紙多少小折れ、裂に多少傷みあり。  

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