沢庵宗彭 Takuan Souhou

天正元年(1573)〜正保2年(1646)

但馬国出石(現在の兵庫県北部)に生まれる。父、綱典は但馬国主山名祐豊の家臣。8歳の時、山名家は、羽柴秀吉に侵攻を受け滅びる。天正10年(1582)、10歳で出家し浄土宗唱念寺に入り、春翁と改名。14歳の時、出石藩主菩提寺臨済宗宗鏡寺に移り、希先西堂に師事し、名を秀喜と改める。天正19年(1591)、希先が没した後、翌文禄元年、出石藩主前野長泰の招きで大徳寺春屋宗園の弟子、薫甫宗忠が宗鏡寺住職に任じる。文禄3年(1594)、薫甫が大徳寺住持となり上京、沢庵もこれに従い大徳寺塔頭三玄院に入り、春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。28歳の時、董甫が死去し、それを機に堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学ぶ。翌慶長6年(1601)、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴に師事。慶長9年(1604)、一凍の印可を受け沢庵の号を授かる。慶長14年(1609)、大徳寺第153世住職となるが、3日で退山し、宗鏡寺に隠棲、寺の復興に尽力する。翌寛永5年(1628)、幕府の下した、後水尾天皇が大徳寺、妙心寺の僧に与えた紫衣着用の勅許無効の処置に抗議し、玉室宗珀、江月宗玩、単伝士印とともに、抗議書を所司代板倉重宗に提出。これにより、寛永6年(1629)、出羽国に配流される。(紫衣事件)寛永9年(1632)、徳川秀忠の死去により大赦令が出され、江戸に入る。徳川家光、徳川頼房、柳生宗矩らの篤い帰依を受け、徳川家光の創建した萬松山東海寺の開山となる。著書に『不動智神妙録』『臨済録抄』など。

沢庵宗彭 書状
書状

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