D-367 児玉誉士夫
Kodama Yoshio

学びのこころ掲載作品

 児玉誉士夫 1
 児玉誉士夫 2
 児玉誉士夫 3
 児玉誉士夫 2
作家名
D-367 児玉誉士夫 こだま よしお
作品名
信義重萬山
価格
御買上げ頂きました
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法32.3×131.5
全体寸法44.6(胴幅)×194㎝
作家略歴

児玉誉士夫
明治44(1911)~昭和59(1984)

福島県安達郡本宮町に生まれる。父方の家系は、山田姓を称し、代々二本松藩に仕え槍術指南役を務める。祖父兵太夫は、家老職を務め、維新後は二本松の副参事を務める。父酋四郎は二本松藩の御典医児玉家の養子になる。

 七歳のころまでは家の生活も中流以上で幸せだったことを記憶している。自分が七歳のときに一家をあげて東京に移り、高田馬場の付近に住むようになった。(中略)
このころが自分の人生でいちばん幸福なときであったと思う。父も母のみな生きており、兄に手をひかれて戸山ヶ原に野苺をつみにいったり、釣堀の金魚を釣ったり、蛍をとりに近くの小川を歩いたりしたことは忘れられない想い出である。大正八年、自分は九歳になった。いま思えばそのころは欧州大戦の直後で不景気なときであったと思う。それは家の生活がしだいに苦しくなり、子供心にも貧乏というものがどんなにさびしいものか覚えているからである。(中略)  この年の七月、母が急に脳溢血で亡くなってしまった。その前の晩まで自分に本を読んでくれた母が夜明けにはもう亡くなって、父が、兄の泊まっているところに知らせに行けというので、薄暗い戸山ヶ原を淋しさも恐さも忘れて、一生懸命に駆けて行ったことを覚えている。自分は母に死なれて世の中の悲しみというものをはじめて知った。母の葬式がどんなに貧しく火葬場に送られたかは、今もこの目にちらつく。(中略)

  (風雲下巻『われ、かく戦えり』より)

大正8年(1919)9月頃、朝鮮京城(現在のソウル)の姉の嫁入り先を頼り、兄を東京に残し、父、弟とともに朝鮮に渡る。そこで、姉の世話により、鉄道関係の河野という家庭に養子に入る。翌大正9年秋、父と弟が二本松に帰ったことを知り、同年11月頃、一人で二本松に帰る。大正11年(1922)12歳、東京を出て亀戸の紡績工場に入るが、劣悪で監獄のような労働環境に耐えかね3ヶ月で工場を脱走し、その2ヶ月後、再び朝鮮の姉の元に向かう。姉の世話で小学校を卒業し、その後は仁川の鉄工場などで働き、夜学にも通う。大正15年(1926)、東京に戻り、日暮里の鉄工場で働き、次に向島の鉄工場に移り、夜間は神田美土代町の夜学に通う。

 こうした生活のうちに時代は昭和に代わり、自分は十七歳になった。そして昭和二年から四年にかけて浅草の今戸町から向島の鉄工場に通い続け、夜は神田の美土代町の夜学で勉強することができた。自分はこのころになってようやく社会の組織というものが次第にわかりかけてきた。思想、政治、そうした問題についても徐々にではあるが理解できるようになった。
 二年あまりも工場でハンマーの音とベルトの響きをききながら、油臭い手で安弁当の飯を食っているうちに、労働者と資本家とは相反した立場であることを知り、大資本家と政治家とはいつも結託し、すべての政治は資本家を中止に行われることも知った。自分が住む今戸町から向島の鉄工場に通うには、隅田川の白鬚橋を渡って行くのがいちばん近道だった。そのころの白鬚橋は壊れかかった危なげな木橋だったが、この橋の真中で婆さんが露天をひらいて大福餅などを売っていた。自分は工場からの帰りにこの大福餅を買って食いながら、橋の上から隅田川の流れを見ていろいろのことを考えるのがそのころの楽しみの一つだった。橋の下を油ぎった水が流れ、ポンポン蒸汽がさざ波をたてて通っていった。それを見ながら亡くなった父母のこと、朝鮮にいたころのこと、そうした過去が思い出され考え出された。自分は今後何になればよいのだ。俺は二度と誰にも苦しめられんぞ! そう思うとき、体中の血が暑く燃えるような気がした。そしてだれを相手とするのではなもない腹立たしい気持ちで、今後自分が生きて行く道を考えさせられるのだった。

(風雲下巻『われ、かく戦えり』より)

昭和4年(1929)19歳、君権学派の憲法学者、上杉慎吉を会長とする「建国会」(顧問に平沼騏一郎、頭山満、荒木貞夫。理事長に赤尾敏。書記長に津久井竜雄)に入会。同年、天皇が明治神宮参拝に向かう途中、赤坂見附で直訴、請願令違反の罪で約1年投獄される。

 自分が朝鮮にいたころ、国粋主義的な団体に一つの憧れを持ったのは、その国粋主義に日本の共産化を防止すると同時に、あくまでも弱い者の味方であると思ったからであった。しかし自分が労働者となって働き、現実に労働争議というものを見、それに対抗する国粋主義団体が暴力のみをもってすべてを押し切ろうとするのをみて、それらの団体が自分が憧れていたものとは大いに相違していることに、はじめて気がついたのであった。  しかし、それだからといって、、自分は労働運動に参加して、その運動に飛び込んで行く気持ちにはどうしてもなれなかった。それは当時の労働組合運動が、資本家の不法搾取にたいする労働者自身のための抗争という以外に、共産主義の実践とか拡大がその指導者たちの目的だということがわかりきっていたからである。(中略) 弱い者の惨めさ、労働者生活の貧しさ、それをだれよりも自分は強く味わってきている。持つ者の横暴にたいする反感もまただれにも増してはげしく感じていた。しかし彼の赤い旗の色と、祖国ソビエトと呼ぶ言葉の馬鹿々々しさは、自分を労働運動に飛び込ませずにむしろ反対の方向へ追い込んでしまった。
 自分は "ソ連などに影響されない、日本人の正しい思想にもとづいた労働運動が、なぜ行われないのだろうか" と、それを考えた。また "資本家や政党の番犬にならずに、政党や資本家の横暴に対抗するような思想的な新しい勢力がなぜ生まれないのだろうか  " と思った。  そのころ自分の目に希望的に映ったのは、上杉慎吉博士を会長として組織された「建国会であった。

(風雲下巻『われ、かく戦えり』より)

昭和5年(1930)、建国会の活動に失望し脱会。国学者、今泉定助の「日本皇政会」に入会、皇道思想を学ぶ。昭和6年(1931)、大川周明が中心になって組織された「全日本愛国者共同闘争協議会」に「急進愛国党」の一員として参加。同年、大蔵大臣井上準之助邸にダイナマイトが放たれた事件に連座し、二度目の入獄をする。昭和7年(1932)10月、斎藤実首相、閣僚らの暗殺未遂事件により検挙、投獄され、昭和12年(1937)4月、府中刑務所を出獄する。

 自分らはこのころから、われわれの敵は共産主義ただ一つではなく、共産主義思想を一面では肯定しなければならないような現実社会を作らすようにした元老、重臣、財閥、政党などの腐敗した支配階級こそ、われわれの当面の敵なりとし、むしろそれにたいする攻撃に全力をもって戦うようになった。

(風雲下巻『われ、かく戦えり』より)

昭和13年(1938)2月、思想運動から離れ、中国に渡る。昭和14年(1939)4月、一時帰国後間もなく、王子製紙社員の肩書きで再び香港から上海に渡る。

 昭和十四年四月、中支地方の旅から東京に戻って間もなく、ハノイを脱出して上海に向かう途上にあった王兆銘氏を香港まで出迎え、氏を護衛することを、自分は外務省関係者ならびに参謀本部第八課から依頼された。

昭和14年(1939)秋、帰国し、中国の実情を知らせるため、少数の同志とともに「興亜青年運動」を組織し、機関誌『大義』を発行するが、大半が発禁処分を受ける。昭和15年(1940)2月、石原莞爾中将と面会。

石原中将は師団長の現職にあったが、すでに組織されていた「東亜連盟運動」の実質上の指導者であったので、中国問題で中将の意見を聞くことは当然のことであった。石原中将は満州独立には参画していたが支那事変の軍事行動には絶対に反対を主張してきた人であった。石原中将の中国に対する識見は自分を感動させた。そして自分の考えがまちがっていないことの確信を得たのであった。
このとき石原中将は、最近、前線から南京の板垣参謀長の幕僚に転じた辻政信参謀への紹介状をくれ、辻参謀に会って、自分の意見を現地で実行にうつすように勧めた。

   (風雲下巻『われ、かく戦えり』より)

河相達夫先生に自分が最初に御目に掛る機会を得たのは、昭和十二年であったと思う。それは恩師笠木良明先生が、満州国において、参事官制度による王道楽土建設という大きな夢が敗れて、空しく日本に引き揚げ、『大亜細亜』という雑誌を発刊されていたころである。当時、出獄後間もない自分は、笠木先生の側で『大亜細亜』誌の仕事をしていた。ちょうどそのころのことである。笠木先生が、自分に先生の学友を始め、親しい方々を全部といってよいほど紹介して下さったが、その中に、文相の安井英二先生もおられれば、警視総監の安部源基先生もおられ、外務省の情報部長をされていた河相達夫先生もおられた。
 昭和十二年の秋ごろ、さきに盧溝橋事件に端を発した支那事変は燎原の火のごとく全面的に拡大されつつあった。そんなある日、笠木先生の使いで、河相先生を外務省の情報部室にお訪ねしたのであった。若輩者の自分は、一人前の国士気取りで、大いに天下国家を論じた次第だが、その折り、河相先生が自分に「児玉君、聖戦とはなにを意味するのか!、皇軍とはいかにあるべきであるかを知っているか!」と言われ、数枚の写真を自分に示された。「これが皇軍の姿か!このまま行けば、皇軍どころか、日本軍は崩壊するぞ!」と言われた。その写真は現地から送られたもので、日本軍が良民を虐殺している場面や、中国の婦女子を暴行しているといった、見るに堪えないものであった。河相先生はさらに言われた。「五・一五事件の青年将校にせよ、二・二六事件の青年将校にせよ、このような日本軍を作り上げるために、昭和維新を叫んだのではあるまい!」自分は河相先生の言われることを聞いていて、胸の奥底から言葉では表現でき得ない複雑な、そして深いなにかを感じさせられた。その後、幾度か河相先生にお目に掛かっては、いろいろな教えを受けている。多分、昭和十二年の十月ごろと思うが、先生が自分に「君は笠木君の門下としては勉強が足らん。熱情だけが取り柄なら、それは暴勇だよ、中国大陸を知らんで、中国問題を論ずるなぞは空論だよ。君に限らず、今の右翼の青年の大半は中国を知らずして中国を論じ、米英の実力を知らずして、簡単に米英の打倒を叫んでいる!」先生は父が子に諭すがごとく自分を諭され、そして「まず、中国を自ら歩き廻って、中国の裏も表もよく勉強してこい。費用は俺が全部みてあげるから、安心して徹底的に勉強して、なにかをつかんでこい」。自分はそれから間もなく、先生の援助で北支那から内蒙古方面を歩き廻った。それは昭和十四年の春ごろまで、幾度か繰り返された。(中略)自分は河相先生のお伴で上海に行ったのが機縁で、まもなく外務省の情報部にいた事務官で、やはり河相達夫先生門下の高瀬侍郞氏の推薦で汪兆銘政権樹立のために、参謀本部に入り、中国に渡った。そしてその後、大東亜戦争勃発と同時に、海軍の委嘱で児玉機関を作り、終戦をまで大陸で働くことになった。

(恩師河相達夫先生を偲ぶ・『真鶴』昭和44年2月)

険悪な日米関係が、刻一刻と緊張しつつあった昭和十六年の十一月末のこと、かねて昵懇にしていた国粋大衆党の笹川良一総裁から、つぎの話しがあった。
 「海軍航空本部の山県中将が、なにか君に頼みたいことがあるらしい。山県さんは山本五十六大将の股肱で、肚のできた人なのだ。すぐ会ってはどうか。」
 で、さっそくじぶんが同中将に会ってみると、
 「これからの戦争は、艦船第一主義はもう時代遅れで、航空第一主義でゆかなくてはだめだ。ところが現在、海軍で割り当てられている軍需資材の大半は、艦船本部に取られてしまい、そのため航本は必需資材の不足にあたまを悩ましきっている。こんな状態では、一朝もし有事のばあいは、手も足も出ないことになる。
 そこで、国内生産だけではとてもまにあわぬから、さっそく上海その他の外地で、わが航本の必要とする物資資材を、しかも可及的大量に獲得したいのだが、その業務一切を、ぜひ引き受けてもらえまいか」
 と、率直な相談があった、そこでじぶんと山県中将の間に、つぎのような言葉がかわされた。
 「ご趣意はわかりますが、時局がら、ひじょうに困難なことで、とりわけ微力のじぶんには、まず不可能のように思われます。それにだいいち、上海には "興亜院" のごとき政府の出先機関があり、何もできないくせに、事ごとにすぐ横槍を入れたがり、さらにまた同地では、海軍武官府が艦政本部の指示によって、"万和通商" というご用機関までつくり、さかんに資材の買いつけをやってます。そんなわけで、かりに航本があたらしい買いつけ機関をもうけたとなれば、かならず武官府が反対し邪魔するでしょう」
 「いやあ、それについては極秘だが、この件についてはすでに海軍大臣の決裁も採っており、したがって出先当局がどういう反対的やりかたをしようとも、断固として許さない決意なのだ」
 「では、閣下がわたしと一しょに、これから上海へ乗り込んでゆかれて、芝刈りだけはやってくれますか」
 「その、芝刈りとは何だ?」
 「要するに、これからじぶんがやろうとすることに対して、嫌がらせをしたり、難くせをつけたりしかねない現地の当局者を、閣下自身が、後くされのおこらぬよう、十分説得しておいてもらわねば――」
 「……」
 「それができれば、あとはじぶんが、かならず予期以上の成果をあげてみます」
 山県中将は、しばらく考えたのち、
 「よかろう。じつはいま、一日もここ(航本)をあけられんのだが、明後日早朝、一しょに上海へ飛ぼう」
 と、あっという間に決定してしまった。掛け引きのない真実の話と、決断のはやさ、これは陸軍とはだいぶ違うと、じぶんは切実にそうおもった。

(『児玉機関生まる』より)

昭和16年(1941)12月(30歳)、児玉機関の任務を受け上海に着任。昭和21年(1946)1月25日(34歳)、連合軍よりA級戦犯容疑者の指名を受け、巣鴨拘置所に収監される。昭和23年(1948) 12月23日(36歳)、釈放される。戦後、政財界に暗躍し、ロッキード事件の黒幕の一人として世間を賑わすが、国会喚問の直前に病に倒れ、その後脱税と外為法違反で在宅起訴されるが、判決を待たず、昭和59年(1984)1月17日、死去する。

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