福沢諭吉
Fukuzawa Yukichi

福沢諭吉1
福沢諭吉2
福沢諭吉3
福沢諭吉4
作家名
福沢諭吉ふくざわ ゆきち
作品名
詩書
作品詳細
掛け軸 絹本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法43.1×151.3cm
全体寸法71.3×207cm
註釈

批評家小林秀雄は『福沢諭吉』の冒頭で次のように語る。
「言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の凄さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破しているところにある。」

福沢諭吉は、日本の迎えた近代が、西欧とは事情を異にし、市民社会の台頭によってではなく、ペリーの来航に端を発した、単なる政治改革、所詮、封建士族間の権力闘争であると断じる。《方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し》(文明論之概略)
福沢諭吉は、明治にあって、他の封建士族と同じように、新たな権力にすがって身を処すことを潔しとはしなかった。

この詩には、福沢諭吉が還暦を迎えた明治28年(1895)元旦の年紀がある。激動の近代日本の黎明期を生きた自身の生涯を、六十二年、萬年の如しと回顧するのである。

中外風光与歳遷 中外の風光、歳と与(とも)に遷る
往時回顧渺無辺 往時回顧すれば、渺として辺無し
屠蘇先祝乃翁寿 屠蘇にて先ず祝す、乃翁の寿
六十二年如萬年 六十二年、萬年の如し
乙未元旦 乙未元旦

(大意)
うちとそと(家庭の内外或いは国の内外)の様子は年月とともに移り変わっていく。
これまでを回顧すれば、はてしなくかすかにまたかぎりもない。
ともあれ屠蘇でお祝でもしようか、このじいさん(私)の寿を。
今日まで六十二年の間は本当に長かったものだ。

還暦を迎え、我が人生の感慨を詠う。コンディション良好。


余記
明治という時代を、あるいは、福沢諭吉という人をどう見るかは、その前の時代をどう見るかによって違ってくる。以前、この《学びのこころ》で取り上げた内藤湖南は、次のように言う。「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。」(応仁の乱について) 一方、福沢諭吉は、その代表的著作『文明論之概略』のなかで、「凡そ今の世の士族其外の者にて先祖の由緒など唱るは、多くは鎌倉以後の世態に関係するものなり。霸政の由来も亦旧くして広きものと云ふ可し。或は又人情は旧を忘れて新を慕ふものとすれば、王政の行はれたるは霸政以前のことにて最も旧きものなれば、王霸両様に就て孰れを忘れんか、必ず其最も旧きものを忘るゝの理なり。或は又人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名分の然らしむるものなりとの説あれども、大義名分とは真実無妄の正理ならん。真実無妄の理は人間の須臾も離る可らざるものなり。然るに鎌倉以来人民の王室を知らざること殆ど七百年に近し。此七百年の星霜は如何なる時間なるや。此説に従へば七百年の間は人民皆方向を誤り、大義名分も地を払て尽きたる野蛮暗黒の世と云はざるを得ず。固より人事の泰否は一年又は数年の成行を見て決定す可きに非ずと雖ども、苟も人心を具して自から方向を誤つと知りながら、安ぞよく七百年の久しきに堪ゆ可けんや。加之実際に就ても亦証す可きものあり。実に此七百年の間は決して暴乱のみの世に非ず。今の文明の源を尋れば、十に七、八は此年間に成長して今に伝へたる賜と云ふ可し。」(文明論之概略 ※1)と言い、日本の近代文明の十中七、八は、鎌倉時代以後の武家時代を源にし、成長してきたものだとする。一方は応仁の乱以後、一方は鎌倉時代以後であるが、日本の近代の源が、武家による封建時代にあるとするところは同じであろう。内藤湖南は、さらに続けて、「そういう大きな時代でありますので、それについて私の感じたいろいろな事を言って見たいと思います。がしかし私はたくさんの本を読んだというわけでありませぬから、わずかな材料でお話するのです、その材料も專門の側から見るとまたうさんくさい材料があるかも知れませぬが、しかしそれも構はぬと思います。事実がたしかであってもなくても大体その時代においてそういう風な考え、そういふ風な気分があったという事が判ればたくさんでありますから…」と言う。また一方、福沢諭吉は、「和漢の歴史を見ると、古より英雄豪傑と呼ばれた大人物で、時勢に容れられた者はきわめて希である。孔子も孟子も時に遇わぬのをうらみ、菅原道真は九州に流され、楠木正成は湊川で討死した。この時に遇わぬとは、二、三の支配者の考えに合わなかったということか、そうではない、それはすなわち、時勢であり、その当時の人々の気風であり、その時代の人民に備わっていた智徳の有り様である。」(文明論之概略・要約※2) と言う。では、福沢諭吉の言う、《時勢》とは何か、その当時の人々の《気風》とは何か、その時代の人民に備わっていた《智徳の有り様》とは何か、それは、福沢諭吉の近代史観の根拠となるものである。福沢諭吉は、西洋の近代社会が、5世紀末の西ローマ帝国滅亡の時を端緒とする長い専制の時代の中で、それぞれの階級が相克し、次第に歩み寄り、そこに自由な市民社会の台頭を見るに至ったものだと言い、真の文明社会とは、個人、階級、それぞれが、互いの権利を認め、自他との調和の中に生まれるのだと言う。これに比して、日本の近代社会は、その専制時代より、士族、貴族、僧侶、平民など、社会に存ずる様々な階級のみならず、個人、家族、夫婦に至るまで、お互いに競い合うことも、また歩み合うことも、また一体となることもなく、今日に至ったものであり、この《権力の偏重》、あるいは《事物の偏重》が、西洋の文明と比して、日本の文明の特質であると論じる。そして、福沢諭吉は歴史をどう感じたか、日本の近代文明をどう感じたか。
この《権力の偏重》、あるいは《事物の偏重》が、日本の独立を守り、日本に真の近代文明をもたらす上で、最も深刻な問題であると感じたのである。※3

さて、私は、いつものごとく、この詩書との出会いをきっかけに、福沢諭吉という人を知ろうとしたのでありますが、お調子者の私が、これもいつものごとく、身近な人に向かって、「今、福沢諭吉を読んいでる、福沢諭吉はおもしろいよ」と言うと、だいたいの人が、興味のなさそうな表情を見せます。私のなかでは、乃木希典、夏目漱石と来たら、(学びのこころの前回と前々回) 次は福沢諭吉だろうと悦に入っているのですが、今の時代の気風には合わぬようです。しかし、私はまだ、福沢諭吉の著作の一部に触れたばかりではありますが、現代日本の最高紙幣の顔が、決して現代日本の気風には合わぬのと同じように、近代明治日本を代表する開明派は、明治の気風に合ってはいなかった。そして、決して簡単な人ではない。私は、福沢諭吉が、明治政府など全く信用していなかったことは自明であるにしても、この時代において、国家なるものが幻想であることを見抜いていた人であり、さらに敢えて言うなら、国家も日本文明も、どうなろうとかまわなかった、福沢諭吉という一個の人間にとっての最大の関心事は、自身に問う、《方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し》(文明論之概略)ではなかったか。こんなふうに、今、福沢諭吉を感じております。

最後に、《権力の偏重》、あるいは《事物の偏重》が日本文明の特質であるとした、福沢諭吉の歴史観とは対照的な、内藤湖南の歴史観が披瀝された一文を記しておきます。

大体歴史というものは、ある一面から申しますると、いつでも下級人民がだんだん向上発展して行く記録であると言つていいのでありまして、日本の歴史も大部分この下級人民がだんだん向上発展して行つた記録であります。その中で応仁の乱というものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよかろうと思います。一言にして蔽へば、応仁の乱というものの日本歴史における最も大事な関係というものはそこにあるのであります。(応仁の乱について)

※1(原文・前述部分補完)
或は人の説に、王制一新は人民懐古の情に基きしものにて、人情霸府を厭ふて王室を慕ひしことなりと云ふ者あれども、必竟事実を察せざるの説のみ。若し果して此説の如く、人情真に旧を慕ふものなれば、数百年来民心に染込たる霸政をこそ慕ふ筈なれ。凡そ今の世の士族其外の者にて先祖の由緒など唱るは、多くは鎌倉以後の世態に関係するものなり。霸政の由来も亦旧くして広きものと云ふ可し。或は又人情は旧を忘れて新を慕ふものとすれば、王政の行はれたるは霸政以前のことにて最も旧きものなれば、王霸両様に就て孰れを忘れんか、必ず其最も旧きものを忘るゝの理なり。或は又人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名分の然らしむるものなりとの説あれども、大義名分とは真実無妄の正理ならん。真実無妄の理は人間の須臾も離る可らざるものなり。然るに鎌倉以来人民の王室を知らざること殆ど七百年に近し。此七百年の星霜は如何なる時間なるや。此説に従へば七百年の間は人民皆方向を誤り、大義名分も地を払て尽きたる野蛮暗黒の世と云はざるを得ず。固より人事の泰否は一年又は数年の成行を見て決定す可きに非ずと雖ども、苟も人心を具して自から方向を誤つと知りながら、安ぞよく七百年の久しきに堪ゆ可けんや。加之実際に就ても亦証す可きものあり。実に此七百年の間は決して暴乱のみの世に非ず。今の文明の源を尋れば、十に七、八は此年間に成長して今に伝へたる賜と云ふ可し。(文明論之概略・自国の独立を論ず)

※2(原文)
和漢の歴史を按ずるに、古より英雄豪傑の士君子、時に遇ふ者極て稀なり。自から之を歎息して不平を鳴らし、後世の学者も之を追悼して涙を垂れざるものなし。孔子も時に遇はずと云ひ、孟子も亦然り。道真は筑紫に謫せられ、正成は湊川に死し、是等の例は枚挙に遑あらず。古今遇ま世に功業を成す者あれば之を千歳一遇と称す。蓋し時に遇ふの難きを評したるものなり。然り而して彼の所謂時なるものは何物を指して云ふ乎。周の諸侯よく孔孟を用ひて国政を任じたらば必ず天下を太平に治む可き筈なるに、之を用ひざるは当時の諸侯の罪なりと云ふ乎。道真の遠謫、正成の討死は、藤原氏と後醍醐天皇の罪なりと云ふ乎。然ば則ち時に遇はずとは二、三の人の心に遇はずと云ふことにて、其時なるものは唯二、三の人の心を以て作る可きものならん乎。若し周の諸侯の心をして偶然に孔孟を悦ばしめ、後醍醐天皇をして楠氏の策に従はしめなば、果して各其事を成して、今の学者が想像する如き千歳一遇の大功を奏したることならん乎。所謂時とは二、三の人心と云ふに異ならざる乎。時に遇はずとは英雄豪傑の心と人君の心と齟齬すると云ふ義ならん乎。余輩の所見は全く之に異なり。孔孟の用ひられざるは周の諸侯の罪に非ず、諸侯をして之を用ひしめざるものあり。楠氏の討死は後醍醐天皇の不明に非ず、楠氏をして死地に陥らしめたるものは別にこれあり。蓋し其これを、せしめたる、ものとは何ぞや。即ち時勢なり。即ち当時の人の気風なり。即ち其時代の人民に分賦せる智徳の有様なり。(文明論之概略・一国人民の智徳を論ず)

※3(原文)
西洋の文明は、其人間の交際に諸説の並立して漸く相近づき、遂に合して一と為り、以て其間に自由を存したるものなり。之を譬へば金銀銅鉄等の如き諸元素を鎔解して一塊と為し、金に非ず、銀に非ず、又銅鉄に非ず、一種の混和物を生じて自から其平均を成し、互に相維持して全体を保つものゝ如し。顧て我日本の有様を察すれば大に之に異なり。日本の文明も其人間の交際に於て固より元素なかる可らず。立君なり貴族なり、宗教なり人民なり、皆古より我国に存して各一種族を為し、各自家の説なきに非ざれども、其諸説並立するを得ず、相近づくを得ず、合して一と為るを得ず。之を譬へば金銀銅鉄の諸品はあれども、之を鎔解して一塊と為すこと能はざるが如し。若し或は合して一と為りたるが如きものありと雖ども、其実は諸品の割合を平均して混じたるに非ず。必ず片重片軽、一を以て他を滅し、他をして其(その)本色を顕はすを得せしめざるものなり。猶かの金銀の貨幣を造るに十分一の銅を混合するも、銅は其本色を顕はすを得ずして、其造り得たるものは純然たる金銀貨幣なるが如し。之を事物の偏重と名く。抑も文明の自由は他の自由を費して買ふ可きものに非ず。諸の権義を許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞ふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云ふも可なり。故に人間の交際に於て、或は政府、或は人民、或は学者、或は官吏、其地位の如何を問はず、唯権力を有する者あらば、仮令ひ智力にても腕力にても、其力と名るものに就ては必ず制限なかる可らず。都て人類の有する権力は決して純精なるを得べからず。必ず其中に天然の悪弊を胚胎して、或は卑怯なるがために事を誤り、或は過激なるがために物を害すること、天下古今の実験に由て見る可し。之を偏重の禍と名く。有権者常に自から戒めざる可らず。我国の文明を西洋の文明に比較して、其趣の異なる所は特に此権力の偏重に就て見る可し。(文明論之概略・日本文明の由来)