谷文晁Tani Buncyou

宝暦13年(1763)〜天保11年(1841)

狩野派や円山四条派、土佐派、洋風画を学ぶなど、各画法の折衷に努めて一家をなし、渡辺崋山、立原杏所ら優れた門人を輩出、木村蒹葭堂などの文化人と幅広く交流し、関東南画の大成者といわれる。

江戸下谷根岸に生まれる。安永元年(1772)13歳、この頃から狩野派の加藤文麗に学んだと思われる。天明元年(1781)19歳、渡辺玄対に師事する。天明8年(1788)26歳、田安家に奥詰見習として出仕。寛政4年(1792)30歳、松平定信の近習となる。寛政8年(1796)34歳、定信の命を受け、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を模写記録し、『集古十種』(全85巻)を刊本。文化2年(1805)43歳、『石山寺縁起絵巻』6、7巻の補写を完了。文政12年(1829)67 歳、御絵師に任ぜられ、即日剃髪する。天保8年(1837)75歳、法眼位に叙され文阿弥と号する。天保11年(1841)78歳、下谷二長町の自宅で没。

谷文晁 黄帝図
黄帝図

画像をクリックしてください